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高松高等裁判所 昭和54年(く)22号 決定

抗告人 検察官

再審請求人 谷口繁義

弁護人 田万広文 外九名

主文

本件抗告を棄却する。

理由

(略語表)

本確定判決=高松地方裁判所丸亀支部昭和二七年二月二〇日言渡判決

再一審決定=第二次再審請求に関する高松地方裁判所丸亀支部(差戻前第一審=再一審)昭和四七年九月三〇日付決定

再二審決定=同高松高等裁判所(差戻前第二審=再二審)昭和四九年一二月五日付決定

最高裁決定=同最高裁判所昭和五一年一〇月一二日付決定

原決定=同高松地方裁判所(差戻後第一審=原審)昭和五四年六月六日付決定

古畑第一鑑定……古畑種基作成の昭和二六年六月六日付鑑定書

古畑第二鑑定……古畑種基・池本卯典共同作成の昭和四六年五月一〇日付鑑定書

古畑・池本回答書……古畑種基・池本卯典共同作成の昭和四六年一二月一三日付回答書

船尾鑑定書……船尾忠孝作成の昭和五二年一二月一〇日付鑑定書

船尾原審証言……原審昭和五二年二月一三日(第一回)及び同年三月一三日(第二回)各証人尋問期日における証人船尾忠孝の証言

船尾鑑定……船尾鑑定書及び船尾原審証言を総合したもの

船尾当審証言……当審昭和五五年八月二九日証人尋問期日における証人船尾忠孝の証言

岡嶋原審証言……原審昭和五三年六月二六日証人尋問期日における証人岡嶋道夫の証言

岡嶋当審証言……当審昭和五五年二月二一日(第一回)及び同年六月一四日(第二回)各証人尋問期日における証人岡嶋道夫の証言

遠藤鑑定……遠藤中節作成の昭和二五年八月二六日付鑑定書(同月一日依頼分)

池本原審証言……原審昭和五三年六月二六日証人尋問期日における証人池本卯典の証言

池本当審証言……当審昭和五五年六月一三日証人尋問期日における証人池本卯典の証言

三上鑑定書……三上芳雄作成の昭和五三年八月四日付鑑定書

三上証言……原審昭和五三年一〇月一六日証人尋問期日における証人三上芳雄の証言

三上鑑定……三上鑑定書及び三上証言を総合したもの

検面調書=検察官に対する供述調書

員面調書=司法警察員に対する供述調書

本件事犯=確定判決の罪となるべき事実・本決定理由第一冒頭に掲記のもの

本件斑痕=古畑第一鑑定における国防色ズボン(証二〇号)の四個の被検斑痕

本件六個の斑痕=本件斑痕及び遠藤鑑定において国防色下服(=国防色ズボン)につき人血検査のなされた二個の斑痕の総称

捜査状況報告控等=昭和二五年当時の捜査書類である「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」中の昭和二五年三月一日発信の電話通信用紙、同年同月一一日付香川県警察隊長作成の強盗殺人事件発生並びに捜査状況報告控及び同年同月九日提出の旨記載の同報告案の総称

三疑点=最高裁決定指摘の三疑点・理由第一掲記

二度突き=請求人が捜査段階で自供する、被害者の胸部を刺身包丁で一度突き刺した上、刃を少し引き、全部抜かないまま、もう一度突いたこと

本件新証拠=洗濯に関する船尾鑑定に同三上鑑定、古畑・池本回答書を総合したもの

本件旧証拠=本確定判決に際し取調べられた全証拠

第一原決定に至るまで

高松地方裁判所丸亀支部が請求人に対し昭和二七年二月二〇日言渡し確定した判決(以下、本確定判決という。)の罪となるべき事実の要旨は、最高裁判所昭和五一年一〇月一二日付決定(以下、最高裁決定という。)を参照し要約すれば「被告人(請求人)は、借金の支払と小遣銭に窮し、財田村の一人暮しのブローカー香川重雄が日頃多額の現金をもつていると考え、これを場合によつては強奪しようと企て、昭和二五年二月二八日午前二時過ぎころ、国防色上衣(証一八号)、国防色ズボン(証二〇号)等を身につけ、刺身包丁を携え同人方に到り、同家炊事場入口の錠である俗にゴツトリといわれるものを刃物様のもので突いてあけて入り、就寝中の同人の枕許あたりを物色したが、胴巻が見当らなかつたため、いつそ同人を殺害して金員を奪おうととつさに決意し、同人の頭、腰、顔を多数回切りつけ突くなどし、同人の腹に巻いてあつた胴巻きの中から現金一万三千円位を強奪したあと、なおも止めを刺すべく、心臓部に一回包丁を突き刺し、包丁を全部抜かずにさらに同じ部位を突き刺し(以下、二度突きという。)同人を殺害した。以下、(本件事犯という。)」というのであり、右確定判決に対する本件再審請求の理由及び本件再審請求に至るまでの経過は、原決定理由第一、第二、(同決定一枚目裏一二行目から一三枚目裏七行目まで)に記載されているとおりである。なお、同所にも記載されているとおり、最高裁判所は前記昭和五一年一〇月一二日付決定をもつて、その原決定(第二次再審請求に対する高松高等裁判所((差戻前第二審・以下、再二審という。))、昭和四九年一二月五日付決定。以下、再二審決定という。)及び原原決定(同高松地方裁判所丸亀支部((差戻前第一審・以下、再一審という。))、昭和四七年九月三〇日付決定。以下、再一審決定という。)を取り消し、本件を高松地方裁判所に差し戻したが、同最高裁決定には、本確定判決の有罪認定とその対応証拠関係を検討したうえ、請求人の自白には、(イ)被害者の胴巻に血痕が付着していない点、(ロ)犯行現場に自白に符合する血痕足跡がない点、(ハ)請求人が自動車で護送される途中、着用のオーバーのポケツトから強奪金の費消残金八、〇〇〇円位を捨てたという点に疑点があり(以下、三疑点という。)、そのすべてが解明されない限り被害者の胴巻から一万三、〇〇〇円を奪取したとして強盗殺人の罪に問われている請求人の自白の信用性について疑問を抱かざるをえず、ほかにも自白の内容である事実に不審を抱かせる疑点が数々あり、本確定判決が挙示する証拠だけでは請求人を強盗殺人罪の犯人と断定することは早計に失するといわざるをえない旨記されている。

第二原決定の理由

原裁判所は、最高裁判所より前記のとおり本件の差戻しを受け、審理した後、原決定において、

(一)  最高裁決定が再一、二審決定破棄の直後の理由として示す、前記請求人の自白の信用性には疑いを抱かざるをえず、本確定判決の挙示する証拠だけでは請求人を本件の犯人と断定するのは早計に失する旨の判断は破棄差戻を受けた裁判所を拘束するものであると解したうえ、差戻後の証拠調べの結果を加えて検討してみても、最高裁決定が指摘する前記疑点(とりわけ三疑点)を解明することができず、右判断は動かないから、最高裁決定に従い、請求人の自白の信用性に疑いを抱かざるをえず、本確定判決の挙示する証拠だけでは請求人を真犯人と断定することは早計に失するものといわざるをえない、としたうえ、これを前提として順次検討するとし、

(二)  血痕鑑定について

本件事犯時請求人がはいていたという国防色ズボン(証二〇号)に付着していた血痕は被害者の血液型と同じO型であるとする古畑種基作成の昭和二六年六月六日付鑑定書(以下、古畑第一鑑定という。)及び右鑑定から二〇年を経て右国防色ズボンについて再度血痕鑑定をし、右ズボンにO型血液が付着していたという古畑種基・池本卯典共同作成の昭和四六年五月一〇日付鑑定書(以下、古畑第二鑑定という。)があるところ、古畑第二鑑定は、古畑第一鑑定時においてすら、余すところなくベンチヂン反応試験を行つて発見した四個の微量血痕を集めてようやく血液型の判定ができたとされ、これに先立つ遠藤中節作成の昭和二五年八月二六日付(同月一日依頼分)鑑定書(以下、遠藤鑑定という。)でも、ルミノール反応試験により右とほゞ同じ場所に血痕とみられる小斑点若干が認められたが、あまりにも微小・少量で血液型の判定はできなかつたほどで残存血痕はないとみられるのに、鑑定のために切り取られたとみられる隣接場所に、さらに大きく、かつ、新しい色調とみられる淡赤褐色の血痕が残存していたというものであつて、不自然不合理であり、右血痕はあるいは古畑第一鑑定以後に何らかの理由で付着したのではないかとの疑いを払拭し切れないから、古畑第二鑑定をもつて古畑第一鑑定の信用性を裏付けるものとはいえない。

古畑第一鑑定自体についても、(イ)新証拠である船尾忠孝作成の昭和五二年一二月一〇日付鑑定書(以下、船尾鑑定書という。)の記載並びに同人の昭和五三年二月一三日(以下、船尾原審第一回証言という。)及び同年三月一三日(以下、船尾原審第二回証言という。)の証人尋問期日における証言(以上を総合して、以下には船尾鑑定という。)によれば、国防色ズボンに関する部分は、これに付着していたという四個の斑痕を集めても〇・四ミリグラム程度で血液型の正確な判定結果を得るために十分な量(二ないし三ミリグラム程度を要するとされる。)であつたとはいえず、また、(ロ)新証拠である岡嶋道夫の昭和五三年六月二六日証人尋問期日における証言(以下、岡嶋原審証言という。)によれば、四個の血痕の一、二についてしか人血反応試験を行わず、かつ、これら微量血痕を集めて血液型の判定を行つたことが認められ、これら血痕が同一由来であることを合理的に首肯しうる確たる証拠はないから、この場合〈1〉人血反応試験を省略した点において人血でないものが混つたり、〈2〉数個の血痕を集めた点において血液型の異なる血液が混つていることも考えられ、微量の故といずれの血液型の血液にも同程度に吸収されるという抗O凝集素の性質により、A型血液とB型血液が等量に混合しているような場合、O型血液が存在しないのにO型と判定を誤る危険性も高く、更に、(ハ)岡嶋証言によれば、このような検査に必ずしも習熟していたとは言いがたい大学院生(岡嶋道夫)によつてそのほとんどが行われ、古畑鑑定人の関与の程度はむしろ低かつたとみられることなどの諸事情を併せ考えれば、国防色ズボンに付着していた血痕の血液型に関する古畑第一鑑定は信用性に乏しいものといわなければならない。

(三)  着衣の洗濯について

また、請求人の自白中請求人が国防色上衣(証一八号)や国防色ズボン(証二〇号)を犯行時着用し、かつ、犯行後間もなく財田川の水でべつとりと血の付いた国防色上衣を洗い、さらにその後四時間位して血痕の残つていた右上衣や国防色ズボンを石けんを使つて洗濯したとの点を検討するに、古畑第一鑑定では上衣にベンチヂン反応はなくこれに血痕付着部分は認められなかつたところ、前記船尾鑑定によれば、請求人が自白するような洗濯の状況でベンチヂン反応が陰性になることはないものと認めるのが相当であり、これに、三上芳雄作成の昭和五三年八月四日付鑑定書(以下、三上鑑定書という。)の記載及び同人の昭和五三年一〇月一六日の証人尋問期日における証言(以下、三上証言という。)(以上の鑑定書及び証言を総合して、以下には三上鑑定という。)及び古畑種基・池本卯典共同作成の昭和四六年一二月一三日付回答書(以下、古畑・池本回答書という。)を総合すると、請求人が自白するような洗濯方法では血痕予備試験が陰性になることはないものと認められ、請求人の右上衣に関する自白は虚偽の自白ではないかとの疑いを生じ、ひいては国防色ズボンを犯行時着用し洗濯したとの自白にも疑問を持たざるをえない。

(四)  二度突きの秘密性について

更に新証拠である捜査状況報告控等(当時の捜査書類である「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」中の昭和二五年三月一日発信の電話通信用紙、同年同月一一日付香川県警察隊長作成の強盗殺人事件発生並びに捜査状況報告控及び同年同月九日提出の旨記載の同報告案・以上三者を総合して、捜査状況報告控等という。)によれば、被害者の死体解剖直後ころから財田村捜査本部で捜査会議が開かれ、その場で解剖結果も報告され、捜査官らに二度突きによつて生じたとみられる創傷の状況が周知されていたことを窮わせ、また宮脇警部補と共に請求人を取調べていた田中警部が当時右創傷の状況を知つていたことが明らかであつて、このことは最高裁決定が宮脇警部補だけが二度突きのことを知らなかつたというのは甚だ訝しく、二度突きの事実が犯人しか知りえない秘密性を持つ事実であつたことをたやすく肯定できない旨指摘する疑点をさらに決定的に深めるものである。

(五)  結論

そうすると、請求人の自白の信用性には疑いを抱かざるをえず、本確定判決の挙示する証拠だけで請求人を本件の犯人と断定することは早計に失すると考えられるうえ、船尾鑑定及び岡嶋原審証言は本件の重要証拠である古畑第一鑑定の信用性に疑いを抱かせ、また船尾鑑定中洗濯に関する部分は請求人の自白の信用性にさらに疑点を加えるものであり、また、捜査状況報告控等は最高裁決定の指摘する二度突きの自白の秘密性に対する疑惑を一層深めるものであるから、もしこれら証拠が本確定判決をなした裁判所の審理中に提出され、これらと他の証拠を総合的に判断すれば、有罪認定に合理的な疑いを生じ、有罪判決に至ることはなかつたであろうことが明らかである。

したがつて、船尾鑑定、岡嶋原審証言及び捜査状況報告控等は刑訴法四三五条六号所定の無罪を言渡すべき新規かつ明白な証拠に当る。

よつて、本件についてはその余の点について判断するまでもなく再審を開始すべきものである。

と、決定している。

第三抗告理由

検察官の抗告理由は、昭和五四年六月一一日付高松地方検察庁検察官検事大石和夫作成名義の即時抗告申立書及び同年一〇月三一日付同即時抗告理由補充書各記載のとおりであるが、その要点は、原決定はまず最高裁決定の指摘する各疑点等について十分な審理を尽さず、かつ、証拠の判断を誤つた結果既に合理的に解明されているかまたは容易に解明されるべき筈の右疑点等を解明することができず、また、請求人の自白の信用性に疑いを抱かざるをえないとしたうえ、更に新証拠として掲げる船尾鑑定、岡嶋原審証言、捜査状況報告控等が刑訴法四三五条六号の明白性を備えていないのにこれに対する評価を誤つてその明白性を是認し、同号による再審開始決定をしたものであると総括したうえ、

一  最高裁決定が提示した疑点等はすべて解明された。

二  古畑第一鑑定は信用できる。

三  古畑第二鑑定における血痕は古畑第一鑑定において見残され又は切り残されたものであつて、本件事犯時に付着したものである。

四  船尾鑑定中洗濯に関する点は条件を異にし、請求人の自白の信用性を害するものではない。

五  ズボンの血痕付着部位についての請求人の自白は、秘密性を持つ。

六  捜査状況報告控等は当時の捜査経過の概況を知りうる資料に過ぎず、死体解剖後の捜査会議に出席した警察官らが被害者の左胸部の特殊な創傷の状況を認識したとしても、これをもつて直ちに同人らが最高裁決定、原決定のいうような態様の二度突きをした事実を知つたとすることはできず、請求人の宮脇警部補に対する二度突きの自白は捜査官があらかじめ知らない明らかに犯人しか知りえない秘密性をもつた事実の自白と認められ、捜査状況報告控等は右自白の信用性、真実性を害せず、明白性を有しない。

七  原決定が手記に判断を加えないのは手記が請求人の自筆と認めたからとみられるし、この点も請求人の自白の信用性を担保するものである。

というものであるが、その詳細は当裁判所の判断のそれぞれの場所において必要に応じて触れる。

第四当裁判所の判断

一  古畑第二鑑定について

原決定は、古畑第二鑑定をもつて古畑第一鑑定の信用性を裏付けていないとし、検察官はこの点を争つている。したがつて、古畑第一鑑定の検討に入る前に、先ず古畑第二鑑定の方からみていくこととする。

検察官のこの点に関する抗告理由は、古畑第二鑑定の被検血痕二個は古畑第一鑑定の際の見残しあるいは切り残しであり、古畑第一鑑定の被検血痕と同一由来によるもので、ただ、洗濯されたが洗濯の効果が不十分で繊維のなかに付着残存していたものであるため、古畑第一鑑定の被検血痕と異なり非常に色が淡くにじんだようになつていたに過ぎない、血痕の比較は面積だけでするべきでない、血痕の色調の点についても、血痕の色の見方・その表現の仕方には相当個人差があり、それに、原審における証人池本卯典の昭和五三年六月二六日証人尋問の際の証言(以下、池本原審証言という。)によると、赤色は非常に淡かつたことが認められ、しかも国防色ズボンの保管状況は良好であり退色しにくい状態で保管されていたのであるから、色調の点から疑念を容れるべきでない、被害者の衣類と一緒に保存されたため血液が国防色ズボンに移着したものであるとも考え難い、古畑第二鑑定は正当である、というのである。

1 古畑第二鑑定がだれにより、どのような手順で行われ、国防色ズボンに付着していた血液型がどのように判定されたかは、原決定の認定するとおりであり、血液型検査の際、斑痕をまとめてしたのか、個々別々にしたのか、いまだ必ずしも明らかでない面もあるが、原決定も、その検査の方法、判定結果を問題としておらず、ただ古畑第二鑑定の被検血痕の付着時期に関して、問題にしており、検察官の抗告理由も結論的にこの点を争つているだけである。当審でもこの点に関し池本証人、岡嶋証人、船尾証人を取調べたが、結局古畑第一鑑定以前に付着したものとするには合理的疑いのあること、原決定と同様である。以下、若干付言する。

2 先ず、古畑第二鑑定の国防色ズボン付着被検血痕中、上の方(二個の中、裾から遠い方)の血痕について考察する。池本原審証言によると、これは〇・二×一・〇センチメートル位の大きさだつたという。これは遠藤鑑定あるいは古畑第一鑑定で発見されたものよりもずつと面積的に広い、遠藤鑑定あるいは古畑第一鑑定で発見されたものも、視認すれば可能なものであつた。しかるに、それらよりはるかに大きい〇・二×一・〇センチメートルものものが、遠藤鑑定や古畑第一鑑定に際し、視認されなかつたということになつているのである。しかも、遠藤鑑定ではルミノール試験、古畑第一鑑定ではベンチヂン試験(間接法)が行われている。後記(第四の三の2)のとおりの右両試験の鋭敏度より考え、右斑痕が存在したとすれば陽性に反応しない筈はない。現に古畑第二鑑定では同じルミノール試験・ベンチヂン試験(間接法)をして陽性の反応を示しているのである。それなのに、遠藤鑑定書、古畑第一鑑定書のいずれにも、血痕予備試験によつて、古畑第二鑑定の右被検血痕が発見された趣旨の記載がない。それも遠藤鑑定・古畑第一鑑定の被検斑痕の近傍で当然注意の向く所である。古畑第一鑑定書にはベンチヂン試験は多少なりとも血痕の付着が疑われる部分には余すところなく施行した、と記載されており、岡嶋証人も原審において同旨の証言をしている(岡嶋原審証言・速記録一〇丁以下)。それで発見された旨の記載がないのに、古畑第二鑑定において、同じルミノール試験・ベンチヂン試験(間接法)によつて発見されたというのは理解し難いところである。もち論、血痕量の総体を決めるには、面積だけでなく、立体的考察が必要である。しかし、ともかく、古畑第二鑑定において視認によつて色彩の分る程度の血液付着があつたとされているから、血痕予備試験に反応しない筈はない。とすれば、試験に反応する面積が重要である。この大きさの斑痕の反応を通常では見落す筈はない。また、古畑第二鑑定時に視認できているものを、古畑第一鑑定に際し、岡嶋証人がこの斑痕に対しベンチヂン試験(間接法)をしなかつたとすれば、やはり理解し難いこととなる。池本証人は当審における昭和五五年六月一三日証人尋問期日における証言(以下、池本当審証言という。)で、古畑第一鑑定時に右斑痕を発見したが、血液型検査には不足不適と思いこれを取り上げなかつたのでないか(池本当審証言・速記録九五丁)と、供述する。それにしても、古畑第一鑑定書に同斑痕に関する記載のないのは不思議である。国防色ズボンそのものの切り取られた穴の位置からみて、右斑痕は、位置的に遠藤鑑定人の付した白チヨークの丸の中にある。しかし、同鑑定人の写した国防色ズボンの写真には、それらしきものが写つていない。写真のこと故、重視はできないが、少なくとも、検察官も「円の外になんか黒く写つているように見えるのがそれでないか。」と発問している程である(船尾原審第二回証言・速記録七五丁)。このようにみてくると、古畑第二鑑定の右被検血痕はそもそも古畑第一鑑定以前には存在していなかつたのではないか、という疑問が生れてくる。このように古畑第二鑑定の被検斑痕中、上の方のものの付着時期に疑問があるということは、同時に同斑痕中、下の方の斑痕についても同様の疑念を生むことは否み難い。色調も同じで池本証人も同一ころに付着したものでないかと考えたというからなお更である(池本原審証言・速記録二五丁、三三丁、同当審証言・速記録九二丁)。検察官の所論は、下の方は古畑第一鑑定の切り残しだと主張する。しかし、古畑第一鑑定書によると、血痕の付着が微量であるので一つ一つについて検査することは困難であると記載されている。そのような時になお切り残しを作るだろうか。岡嶋証人は一般に後日の検査に備えてできるだけ血痕を一部残すという配慮をしていたようである。しかし、同証人は原審において、はつきりした証言ではないし、断言もしないし、むしろ、反対の場合もありえることの留保もしているが、とにもかくにも、この程度の大きさだと残したとも考えられない、残すまでの気持にならなかつたのでないか、黒い部分(古畑第一鑑定の切り取り部分)だけを切り取つて左にある一寸した角の部分(古畑第二鑑定の被検斑痕)を切り残すということをせず、全部取つているのではないか(岡嶋原審証言・速記録八八丁、九〇丁、九九丁)等との言を洩らしているのは、古畑第一鑑定に当つて古畑第二鑑定のいわゆる下の方のものを切り残したと認定するには、気がかりとなるところである。古畑第一鑑定が遠藤鑑定後の再鑑定(岡嶋証人がどの程度既に遠藤鑑定が行われていたことを知つていたか明らかでないが、少なくとも同証人の当審昭和五五年二月二一日証人尋問期日における証言((以下、岡嶋当審第一回証言という。))等よりみて、既に遠藤鑑定により国防色ズボンに木札が付されていたりしたから、ある程度は認識していたものと考える。同上証言・速記録四六丁)であること、微量血痕であることを考えるとやはり古畑第二鑑定の被検血痕中下の方の斑痕が古畑第一鑑定時に切り残したものであるとみるには疑いがある。

3 次に色調の点についてみてみよう。古畑第二鑑定書、池本原審及び当審証言によると、上の血痕も下の血痕もいずれも赤という字で表現される要素があつたことは否定し難い。池本証人は当審で赤も非常に淡い色だつたように言う。しかし、それにしても赤という字で表現される要素をもつた色であつたことは否定していない。血痕の色が血液中のヘモグロビンの変化によるものであることを考えると、赤という字で表現される要素を持つた色であることの意味は重要である。遠藤鑑定・古畑第一鑑定の色調に関する表現と対比してみて、それに検察官が付着したと主張する時期から古畑第二鑑定の実施されるまでの約二〇年の経過年数を考えると、やはり、疑念の残ること、原決定と同じである。検察官は保存状態が良かつたと主張するが、それにしても二〇年の経過年数は軽視できない重みがある。特に前記上の方の血痕は厚みがなくうすく付着していたと認められるから、血痕の色調変化は早い筈である(池本当審証言・速記録一六七丁)。

池本原審証言(同上速記録一八丁以下、二八丁)及び当審証言(同上速記録二九丁以下、四二丁)によると、古畑第二鑑定の被検血痕は、いずれも色がうすく、上の方は非常に淡くにじんだようなもので、正確には淡淡淡赤褐色とでもいうべきものであり、下の方はこれより色が多少濃かつた、上の方はにじんでいたが下の方はにじんでいない、という。検察官は抗告理由において、これは洗濯の影響によるものであるという。血液が衣類に付着してから濡れると、にじむというから、上の方のその点は洗濯の影響によるものとして説明もできよう(なお、この上の方の斑痕が遠藤鑑定・古畑第一鑑定の血痕予備試験で発見されなかつた点よりみて、その血液付着時期は古畑第一鑑定時以後でないかという疑問のあること、前記のとおりである。)が、下の方はそれとは異なり、洗濯の影響があつたという証左とはいえない。検察官は、下の方の斑痕は古畑第一鑑定時の切り残しであり、古畑第一鑑定の被検斑痕は衣類に飛沫血痕の外形をそのまま残したものであり、古畑第二鑑定のそれはその外形が損われて繊維のなかに付着した形で残つていたものである、とも主張する。池本証言によると、前記のように、上の方の斑痕は淡淡淡赤褐色とでもいうか非常にうすい赤褐色で、下の方はそれよりも多少濃いけれども、淡赤褐色の淡は色にもかかる表現である(池本原審証言・速記録二八丁、当審証言・速記録三〇丁)というから、下の方も、とにかく淡い色であつたようである。半米粒大と表現される微小の斑痕の一部が暗褐色であり、その切り残しが上記のような淡赤褐色というのではあまりに対照が過ぎる。遠藤鑑定も、暗褐色乃至黒褐色で、略同様の性状の小斑点とか、多少光沢ある黒褐色の微細な塊、と表現しており、上記のような色彩の切り残し部分が生じうるようなものと思われる記載がない。

4 検察官の抗告理由には、「原決定は、国防色ズボンの古畑第二鑑定の被検血痕は古畑第一鑑定時以後移着した可能性があり、たとえば被害者の衣類から血液が移着したというようなことも考えられないわけでない、とする。」として、被害者の衣類その他からの血液移着を念頭において、そのようなことはないと非難しているが、原決定は、古畑第一鑑定時以後付着した可能性があるといつているのであつて、必ずしも被害者の血液が移着したといつているのでなく、被害者の衣類からの血液移着は例示に過ぎない。原決定の言わんとするところは、古畑第二鑑定でO型と判定された血痕はなんらかの理由で古畑第一鑑定時以後に付着した疑いがある、というだけで、それ以上どのような血液がどのような機会に付着したのか特定しているものでないことは原決定上明らかである。またそれを決定しようもないことは、記録上明らかである。検察官のこの点に関する抗告理由については、多く言うを要しない。ただ上記に検討してきたとおり、古畑第一鑑定時以前には付着していなかつたのでないか、即ち本件事犯時に付着したものではないのではないかという合理的疑いがあること、原決定と同じである。

5 以上のとおり、古畑第二鑑定に関する検察官の所論は理由なく、同鑑定をもつて古畑第一鑑定の結論を補強するもの、ということはできない。また、古畑第二鑑定の被検血痕を、古畑第一鑑定時以前から存在した、とするには合理的疑いがある。

なお、右に見てきたように古畑第二鑑定の採証し難いのはその付着血痕の由来に疑義があるからであつて、その検査方法やその判定結果自体を問題としているわけではないから、古畑第一鑑定も同じ古畑鑑定人が関与しているが、古畑第二鑑定が採証できないからといつて、古畑第一鑑定の証拠価値に響くものではない。古畑第一鑑定の対象となつた斑点は、既に遠藤鑑定の際発見され白チヨークで記され写真も撮られているのである。

二  古畑第一鑑定の信用性について

検察官の所論は古畑第一鑑定の方法及び結果は適正妥当であり、原決定が新証拠とする船尾鑑定及び岡嶋原審証言によつてその信用性が損われるものではなく、右新証拠には明白性がない、といい、原決定が古畑第一鑑定を信用できないとする各疑点、事情に対し、

(イ) 〈1〉三ミリグラム以下の血痕量でも凝集素の力価を低下させ、分量を減少させる手法により、この場合でも凝集反応の判定は客観的にできるから、原決定がいう〇・四ミリグラムの場合でも血液型判定を誤る危険性はない。〈2〉原決定が血痕量を約〇・四ミリグラムとかあるいは一ミリグラムをはるかに下廻ると認定するのは、少なすぎる。

(ロ) 〈1〉本件四個の血痕はその位置、性状よりみて同一由来と認められ、人血検査を一部省略したからといつて、同一由来と考えられる血痕八個中遠藤鑑定において二個古畑第二鑑定において二個その他古畑第一鑑定においては更に一部の人血検査が行われ、いずれも人血と認められたのであるから、古畑第一鑑定の対象となつた四個の血痕中に動物血の混在は考えられないし、血液型の判定を誤るおそれは全くない。〈2〉本件に使用した抗O凝集素はO型血液に強く吸収され、他の血液型の血液には弱く吸収され、A型又はB型血液に対する抗O凝集素の被吸収程度は対応する型血液に対する抗A凝集素または抗B凝集素のそれより弱いことが明らかである。〈3〉またA型血液とB型血液が混在するような条件の下にあつてもこれを誤つてO型と判定されるようなことはありえない。したがつて古畑第一鑑定で数個の血痕を集めて血液型検査をしてもO型血液がないのに、O型と判定を誤る危険性はない。

(ハ) 岡嶋道夫は、当時大学院特別研究生ではあつたが、血痕鑑定に習熟していた、

と主張する。

1 古畑第一鑑定がだれにより、どのような手順で行われ、国防色ズボンにあつた斑痕の人血付着の有無及びその血液型がどのように判定されたかは、原決定の認定するとおりである。本件における争点はその判定結果を信用しうるか否かにある。以下、この点に関する前記原決定の理由及び検察官の抗告理由にそつて順次検討する。

(イ)〈1〉 そこでまず、国防色ズボンに付着していた血痕量について検討する。古畑第一鑑定によれば、国防色ズボンに血液が付着していたとされたものは、けしの実大の暗褐色の斑痕三個と半米粒大の暗褐色の斑痕一個(以下、本件斑痕という。)である。原決定は船尾鑑定に基づき同人が実験的に白木綿の布に飛沫状に血痕を付着させて作製した血痕の面積と血痕量の計測結果(船尾鑑定書六~七頁A表)からの比例計算により、けしの実大を一×〇・五ないし〇・七ミリメートルとみて、これを一×〇・五ミリメートルの矩形に近いものとし、その血痕量は〇・〇二五ミリグラム、半米粒大を五×三ミリメートルとみて、これを直径三ミリメートルの円形に近いものとしその血痕量を〇・三六ミリグラムとし、けしの実大三個と半米粒大一個の血痕の合計量は〇・四三五ミリグラムになるところ、人血試験に要した分としてけしの実大一個ないし二個分を差引くと約〇・四ミリグラムになる。と記載している。しかしながら、船尾原審第一回証言(同速記録七六丁)で、船尾証人自身けしの実大というのは、直径一ミリメートル位の円形のものを言う人もあることを認めており、三上鑑定書もこれによつているから(同鑑定書五丁)これによれば原決定のように一×〇・五ないし〇・七ミリメートルとみるのは過小のそしりを免れず、また半米粒大を五×三ミリメートルとしながら、直径三ミリメートルの円形に近いとするのも正確でない。もつとも船尾証人は原審第一回証言(同速記録七六丁)において、けしの実大とは一ミリメートル掛ける〇・四(ミリメートル)を言うこともあるといい、これによれば原決定の数値はやや大き目の計算となる。いずれにしても、けしの実大、半米粒大と言つてもその数値が確立されていたわけでもなければ、国防色ズボンに付着していた血痕の大きさが原決定のするような数値で表すのも妥当であるという保証もなく、ただ一応の推量算定する根拠としたもの、と考えるべきだろう。問題はその立体性である。

遠藤鑑定書第五項には

右国防色下服の右脚下半で、前面の略中央(木牌を付してその部位を示す)及び略々後面の下端等に、暗褐色ないし黒褐色の小斑点若干を付着し、これらは何れも略々同様な性状を呈し、木牌を付した部分の斑点は「ルミノール」発光反応及び「ウーレン・フート」氏人蛋白沈降反応を陽性に与えるので人血痕である。これらは何れも表面から付着したもので裏面から付いたものでなく、且つ「ルーペ」で検すると、多少光沢のある飛沫血痕の様に見え何れも微少で血痕の量が少なく、血液型の検査を行うに充分でないからこれを行わなかつた。写真第一は本物件の下半の一面を、第二、第三はその一部(人血痕付着部)をそれぞれ撮影したもので、後二者は前者を多少拡大したものである。本物件が私の手許に送致せられた時には、被検汚斑が赤色のやや太い線で円く囲まれ、その部位を明示せられてあり、かかる汚斑は何れも血液検査(「ルミノール」発光反応)が陰性であるに反し、赤い印のない、更に微細な暗褐色ないし黒褐色の小斑点は陽性の血液反応を呈した(註、血液検査陽性の斑点若干には、「チヨウク」で白印を付しておいた)。しかして本物件が洗濯せられたとしても、血液反応の陽性を呈した斑点の中には、洗濯を免れたと思われるものがある。即ちその量は極めて少ないが、前記の如く多少光沢ある黒褐色の微細な塊をなして付着している

旨記載され、写真が添付されている。

一方古畑第一鑑定をみるに、

本物件(国防色ズボン)の右脚前面の下半部には木札を付した部が二個所あり米粒大の部分が切取られている。又右脚前面の中央よりやや下方及び右脚後面の下方に白チヨークでマークせられた部が三個所あるがその部にはけしの実大の暗褐色の斑痕三個及び半米粒大の暗褐色の斑痕一個が認められる。

と記載されている。このうち、遠藤鑑定書の前記引用末尾に記載されている、「多少光沢ある黒褐色の微細な塊をなして」いたというのは、国防色ズボンの陽性の血液反応を呈した斑点すべてをいうのか否か、という点については疑義がないわけではない。このことは、「………血液反応の陽性を呈した斑点の中には洗濯を免れたと思われるものがある。即ちその量は極めて少ないが………塊をなして付着している。」という表現よりみて、果して、古畑第一鑑定書に記されている暗褐色の四個の斑痕が遠藤鑑定書にいう塊をなしていると表現されている部分に相当するか否かは、必ずしも文面上からは一義的に明らかではない。しかし、遠藤鑑定書において国防色下服(ズボン)の右脚下半の前面略中央及び略々後面の下端等に付着していた暗褐色ないし黒褐色の斑点はいずれも略同様な性状を呈していたとされ、しかもいずれも多少光沢のある飛沫血痕の様に見える、と記されているところを見ると、古畑第一鑑定書に記されている暗褐色の斑痕が塊であるとか、たとえ塊とまで表現しえないものであつたとしても、塊に近い性状の付着の仕方をしておつたもので、厚みのない単に平面的な付着をしておつたものとは考え難い。しかも、右斑痕は、古畑第一鑑定書自体で暗褐色と表現され、遠藤鑑定書では、暗褐色ないし黒褐色で多少光沢があつたといわれている。ところで、船尾証人の当審昭和五五年八月二九日証人尋問期日における証言(以下、船尾当審証言という。)による(同上速記録一一九丁)と、血痕も厚みがあると赤味より黒味が強く見えるという。このことは池本当審証言(同速記録三五丁)でも指摘するところであり、岡嶋証人も当審昭和五五年六月一四日証人尋問期日における証言(以下、岡嶋当審第二回証言という。)で同旨の供述をしている(同上証言・速記録七四丁)。この面からも本件斑痕が塊状か少なくとも塊に近い性状で厚味をもつたものであり、平面的な付着でなかつたと認めるべきである。ところで、原決定が算定の基礎にした船尾鑑定の血痕量の実験(船尾鑑定書六~七頁A表)はヘパリンを加えた人為的に流動性を付与した人血を使用しており、それは平面的にしか付着しえない性状のものである(船尾当審証言・速記録一〇六丁以下、一一一丁)。しかも、船尾証人自身同表は絶対的なものでなく、一つの目安であるとし、同表自体の中にばらつきのあることを認めている(同当審証言・速記録一〇九丁)。また、立体的になつてくると、右表とは異なり重くなつてくることももち論認めている(同当審証言・速記録一一七丁以下)。このような付着の仕方をした実験結果により、平面的でない付着をしていたと認められる本件斑痕の血液量を、機械的に算定したのでは、適正な数値を求めることはできない。船尾証人自身原審第二回証言で(同速記録三四丁、四五丁)、実験的計量として、血粉につきそれぞれけしの実大は〇・〇九~〇・二七ミリグラム、半米粒大は一・五七~二・五七ミリグラムであり、衣類に付着した血痕としては半米粒大の場合恐らく一・何ミリグラムというような大きさになると供述し、更に自己のした血痕量の実験(船尾鑑定書六~七頁A表No.2)を基にすると一ミリグラム以下になるから、一ミリグラム内外と推定して構わないと述べ、更に、当審においても衣類に付着した血痕として半米粒大の場合一ミリグラム位か、半米粒大の血粉量を平均二ミリグラム位としてまあどう見てもせいぜい半分の一ミリグラムか一ミリグラム強でないか(船尾当審証言・速記録一一三丁以下)と表現している。船尾当審証言(同速記録一八九丁)によると、同人は、血痕という時、平面的についているしみのような斑痕を想定しているので、前記のように平面的付着でない本件斑痕について、船尾証人のいうように血粉量の半分とみるのが妥当であるか否か問題がないわけではないし、特に、船尾証人自身のした実験例(船尾鑑定書六~七頁A表No.2)を基にして一ミリグラム内外と推定するのは理解し難く(むしろ、同表によるならば、原決定のいうように〇・三六ミリグラム程度と推定する方が合理的である。)採用し難いが、上記血粉量を基礎にしての算定は本件斑痕から得られる量を推定する一応の参考にはなる。もち論、今となつてはこれを秤量しあるいは確定する術とてもない。ただ、少なくとも、本件斑痕に付着していた量が微量であつたことは間違いないが、原決定のいうようなおよそ〇・四ミリグラム程度あるいは一ミリグラムをはるかに下まわる極めて微量である、と認定するのは相当でない。

〈2〉 原決定は、血液型の判定として確実な結果を得るためには、通常二ないし三ミリグラムの血痕量を必要とするというべきであり、それ以下では刑事裁判の証拠として一般的に証明力に疑いを生じ、採用することにちゆうちよされるといい、検察官も古畑第一鑑定の当時凝集素吸収試験法によるABO式血液型判定には三ミリグラム位の血痕量を必要とすると一般に言われていたようである、とこれを肯定し、もち論弁護人もこれを前提にして立論を進めている。ところで、岡嶋当審第一回証言(同速記録四八丁、五九丁以下)によると、二~三ミリグラム必要だというのはかなり古い時代から言われていたことで、その時代はかなりの力価の抗血清をかなりの量使つていた時代に言われたことであり、古畑第一鑑定当時はもつと微量でも検査できないだろうかということで岡嶋証人の属していた東京大学法医学教室でも工夫試行がなされていたという。そして当時の普通の血痕検査では力価八倍の抗血清(後記第四の二1(ロ)〈2〉に記すとおり、抗血清の原液を生理的食塩水で稀釈し、これに、対応する血球を加えた場合、八倍までの稀釈ならば凝集反応を起すが、その倍の一六倍稀釈では凝集反応を起さないもの)あるいは力価一六倍の抗血清(上記同様一六倍稀釈で凝集反応を起し三二倍稀釈で起さないもの)を〇・二ccあるいはそれ以上使うのが常識であり、その時二~三ミリグラムの検体があり、専門的注意を払つてやれば一応信頼できる結果が得られると考えられていたが、微量血痕の場合にはその用いる抗血清の力価や使用量を強めあるいは少なくすることによつて可能ではないかと理論的にも考えられ、経験を積むうちに、慎重に行えばそれがため検査が必ずしも不正確になるものでないことが分つてきた、というのである。船尾証人も当審における証言において、凝集素価(力価と同じ)が八倍から四倍のものが使われており、場合によつては相手となる検体の血痕量が微量になるとそれに合わせて凝集素価が二というような低いものを使わねばならないと述べ(船尾当審証言・速記録三丁、七丁)、微量血痕の場合に前記岡嶋の証言したと同じテクニツクを用いることを示唆している。船尾証人は当審において凝集素価を弱めることのみに触れているが、原審において微量血痕に対し調整可能な場合には抗血清を量的にも、それから凝集素価という質の方も調整すると答えている(原審第二回証言・速記録九五丁)。もつとも同証人は凝集素吸収試験でやる方法では二ミリグラム前後の血液が得られないと採証学的な血痕検査はできないと思つているという(同当審証言・速記録一〇三丁)。また、その時用いる抗O血清の力価は四倍からせいぜい八倍のものを大体〇・二五cc位用いるとも述べている(同当審証言・速記録一八四~一八五丁)。とするならば、同証人は、前記のように微量の時には凝集素価二というような低いものを使うとも述べているのであるから、抗血清の力価を右にいう力価四倍あるいは八倍という程度よりももつと弱め使用量も〇・二五ccよりももつと減ずるならば、弱め減ずる程度に比例して二ミリグラム以下の血液しか得られない微量血痕の場合でも、吸収試験による検査が可能な場合もあると考えていたことを、暗に肯定しているものといわざるをえない。もつとも、岡嶋証人も述べているように、これが検査には慎重な配慮も要しようし、血痕量が微量でもできるといつてもその微量の程度には自ら限界のあることはもち論である。また、微量の血痕に対する検査方法は古くから研究され始めていたが、岡嶋証人のいう右のような方法が古畑第一鑑定当時学問的に認知されるという段階にまでは達していなかつたようである。しかし、その後の学問的発展によつて微量血痕の検査方法として右のような方法が妥当であつたことが裏付けられた、というのは岡嶋証人の証言するところであり(岡嶋当審第一回証言・速記録六〇丁、二一五丁)、これを否定するようなものは記録上見当らない。弁護人が提出した、岸野整の「血痕並びに人体液排泄物等の血液型判定法に関する知見補遺第一編血痕の血液型判定法に於ける二、三の基礎的事項について」という論文も安田氏法の追試であり、しかも〇・一ミリグラム、あるいは〇・〇四ミリグラム、若しくは〇・〇二ミリグラム程度と計算される超微量の血液の血痕の検査法に関するものであり、本件に適切でないばかりか、かえつて、血液付着後一週間以後一年未満という限定つきではあるが、〇・一ミリグラム程度の場合においても良好な結果が得られる場合がある、とされているのは注目すべきことである。

本件において、国防色ズボンの検査に当つて、力価二倍の弱い抗血清を用いていることは古畑第一鑑定書によつて窺われる。これは付着量が極めて微量であつたことにつき配慮したことを示し、岡嶋証人も言う如く当然抗血清の量も通常の場合より減じたものと考えられる。以上のとおり古畑第一鑑定は、斑痕が微量なりに配慮した検査をして得られた結果なのである。それに右〈1〉で検討したとおり、本件斑痕の付着量が原決定のいうようなものでないと思料されることをもあわせて考察すれば、古畑第一鑑定において実施してみてその上で出てきた試験結果は、試験結果として肯定すべきであつて、微量であるからといつて、これを否定すべき事由とはなし難く、原決定のいうように、斑痕量の微量性故に古畑第一鑑定の試験結果を正確なものでないとか信用性に乏しいものとするわけにはいかない。もち論、前記のように微量の試験であればあるだけに、慎重な配慮を要するであろう。しかし、本件国防色ズボンの検査における血液型試験は抗A凝集素・抗B凝集素において斑点部・対照部においては同様な反応を示しているが、抗O凝集素においては斑点部と対照部で二段階差という有意・明瞭・信頼できる差異を示している。この点よりみても本検査が不正確であるとか判定を誤つたものとかとは解し難い。

(ロ)〈1〉 人血試験を一部省略した点についてみてみよう。

古畑第二鑑定の被検血痕は前記のように付着時期に疑義があるから、考察の対象にすることはできない。古畑第一鑑定で血痕予備試験が陽性を示した斑点は四個で、岡嶋原審証言によると、おそらくそのうちの一個につき人血試験をしただけだろうという。原決定は、古畑第一鑑定がこれらの斑痕のすべてについての人血反応試験を行わずかつこれらを集めて血液型判定の試験を行つている点において、人血以外のものが混入する可能性ひいては判定を誤る危険性を否定し切れず……古畑第一鑑定はきわめて信用性に乏しいと説述している。しかし、これら四個の斑痕は前面・後面の差はあつても、いずれも国防色ズボンの右脚の下半部に付着していたものであり、すべて血痕予備試験であるベンチヂン(間接法)試験において陽性の反応を示したのである。これら四個の斑痕は、遠藤鑑定人が発見しチヨウクで白印を付した部分にあつたのであるが、同鑑定人はこの外に国防色ズボンの右脚下半の前面に二個発見し(この二個について人血試験を施している。)、これらにルミノール試験を行い陽性の反応を得ているのである。先ず本件斑痕はすべて血痕予備試験が陽性であつたことを留意すべきである。遠藤鑑定人は自ら発見した暗褐色ないし黒褐色の小斑点若干がいずれも略同様の性状を呈し、これらはいずれも表面から付着したもので裏面から付いたものでなく、かつルーペで検すると、多少光沢のある飛沫状の血痕のように見えるとして、これら斑点について個性を認めていないし、岡嶋証人も本件斑痕を同一性状・同一由来と考えたようである(岡嶋原審証言・速記録二七丁、同当審第一回証言・速記録一〇八丁)。もつとも外観だけで同一由来であるとまで断定するのは危険であるかも知れないが、少なくとも似通つた性状にあり、遠藤や岡嶋証人が見て異なる性状異なる由来のもの、とするところはなかつたものと考えられる。そして、遠藤鑑定人において前面の二個につき人血試験をして人血と判定し、古畑第一鑑定において少なくとも一個につき人血と判定しており、したがつて古畑第一鑑定の四個及び遠藤鑑定人の人血試験をした二個合計六個(以下、本件六個の斑痕という。)のうち、少なくとも任意(鑑定人が意図的に選んだ形跡はない。)の三個までは人血の証明があつたことになり、しかもこれら六個はいずれも同じ国防色ズボンの右脚下半部にあり、さして離れたところにあつたわけではない。検察官の即時抗告理由補充書の表現を借りるならば、右六個はすべて左斜上から右斜下にかけて約七センチメートル幅の一線上の内に入つている。ズボンの前面及び後面に付着していても、付着時にズボンが静止していたとは限らないことを考慮すると、別に同一性状・同一由来を否定する事由にはならない。更に動物の血液は抗A又は抗B凝集素を吸収するものが多く、抗O凝集素を吸収するものは種類個体ともに少なく(岡嶋当審第二回証言・速記録二七丁、船尾当審証言・速記録一八七丁以下)、O型であると判定されたことは、岡嶋証人によると、人血であるとの推測を高めるといい、船尾証人もあるいは人血であるという証明になるかも知れないと述べている(岡嶋当審第二回証言・速記録二六丁、船尾原審第二回証言・速記録五二丁)ところ、本件斑痕はO型によるものと判定される、少なくとも凝集素吸収試験においてO型反応を示すだけの物質の付着を示す試験結果が得られていること後記(第四の二1(ロ)〈3〉〈4〉)のとおりである。

人血試験を施し人血反応が陽性に出た斑痕が人血であること確実であるといえる外、以上のような条件が揃つているのであるから、本件斑痕中人血試験を施行しなくても、血液型試験でO型との反応を示したその余の斑痕も人血であると推量させるかなり高度の証明が得られたものというべきである。

もつとも、本件斑痕四個全部に対し個々的に人血試験がなされていないことによつていまだ人血とは認められないという者も、あるいはあるであろう。たしかに、科学の証明としては論議はあるかも知れない。しかし、本件は裁判上の資料となりうるか否かの問題であり、他の証拠と総合対比して事実認定するに当つてどのような証拠価値をもつかの問題である。如上のごとき状況にあるということは、それ相応に十分証拠価値をもつている、といわざるをえない。

〈2〉 古畑第一鑑定に用いられた抗O凝集素は他の血液型の血液によつてもO型血液によるのと同程度に吸収されるものであるか否かについてみるに、三上証言はこれを否定し、船尾証人は原審及び当審において古畑第一鑑定中軍隊用袴下についての成績

表〈省略〉

を基にこれを肯定する。そして古畑第一鑑定は右の成績を基に、この斑点は抗A凝集素と抗O凝集素を吸収し、抗B凝集素を吸収しないからA型である、と説明するにとどまり、吸収の程度の差を問題にしていない。そして岡嶋原審証言は抗O凝集素のO型血液に対するのと、その他の血液型の血液に対するのとの被吸収の度合について、厳密にいうと差があるかも知れませんが、当時としては同じ吸着度合という考えで扱つていましたしまたそういうふうに反応が出ていたと思いますといい(岡嶋原審証言・速記録三七丁)、血液型判定の一般式を

表〈省略〉

と表示し、ここにも書いてあるとおりでA型にも、B型にも、AB型にも、もちろんO型にも吸収されるので、この表に出るようなケースの抗O凝集素を使つておりましたとしており、軍隊用袴下についての成績中抗A凝集素の稀釈倍数1の時の対照部の試験結果が〔++〕となつていることにつき説明を加えなかつたのに、当審に至り(岡嶋当審第一回証言・速記録六三丁以下、同当審第二回証言・速記録六〇丁以下)、一般式を

表〈省略〉

と訂正したうえ、抗O凝集素の性質につき、O型血液には強く反応するが、その他の血液型血液には弱くしか反応しないものであり、当時東大で作つていた抗O凝集素は、使用する鶏の個体差等により性能が千差万別で血球と反応させてみた上で性能の良いものを選んで使つており、軍隊用袴下の成績についても抗A凝集素も抗O凝集素も+、-だけに着目すれば、斑点の部と対照部においていずれも一段階の差に過ぎないが、抗A凝集素の稀釈倍数1の時、対照部についてのものが〔++〕であるのに斑点の部が+であることは斑点の部においてなにがしかの吸収があつたことを示すものであり、いわば抗A凝集素については一段階と二段階の中間的差を示しており抗O凝集素の稀釈倍数1の時、斑点の部、対照部とも+で差がなく稀釈倍数2で始めて差が出てきており、単純に一段階差に過ぎないのと対比してみて、A型血液が抗A凝集素を吸収する度合よりも抗O凝集素を吸収する度合の方が低いことを示しているものである、とし、原審における証言は、おぼろげな記憶で漠然とした印象で答えたもので、この点に関する当審における証言の方が正しい、とするに至つた。古畑第一鑑定の軍隊用袴下の成績よりみて、当審における証言の方が正確であると認められる。

ところで、この点につき当審における船尾証言は軍隊用袴下の成績表には吸収前の凝集素価(力価ともいう)が記載されていないが、これは夏メリヤスシヤツ(証一一号)の次の表のような成績

表〈省略〉

に記載されたのと同じ力価のものが使われたとみなければならず、この表における抗A凝集素の稀釈倍数4のとき+にとどまるから軍隊用袴下の成績中右に対応するとみられる抗A凝集素の稀釈倍数1のとき〔++〕になるのは〈1〉対照部から凝集力を強める物質がにじみ出たか〈2〉稀釈を誤つて濃くしたか〈3〉検査のとき入れる血球量を誤つたかであるとし、したがつて軍隊用袴下の成績表を見る場合は右〔++〕は+とみなさなければならず、岡嶋証人が当審でいうような抗O凝集素の被吸収度の差は、ないことに帰するという。しかし船尾証人のいう右三者のうち〈1〉は想定しがたいところである。弁護人も、軍隊用袴下の対照部から凝集力を強める物質がにじみ出たため稀釈倍数1で対照部が〔++〕なら、稀釈倍数2は〔++〕、稀釈倍数4は+であるべきだと主張し、前記〈1〉の可能性を否定している(昭和五五年一〇月一五日付弁護人意見書三二頁)。また、〈3〉の血球量を誤つたかという点について、船尾証人は当審証言で「加える血球の量かなんかでも差が出て来るというようなこともあるわけですか。」という問に対し「ええ、それもテクニツクフエラーに入ります。」と答えている(同当審証言・速記録一三七丁)が、それ以上その点について何の説明もない。また、加える血球量をどのように誤つたがために、このような結果になつたというのか、これを推定する根拠すら明らかでない。また、同証人は研究所・教室・専門家は一定の赤血球を用意していてこれを使うよう努力しており、この面から差異が出ないようにしていると証言(同上当審証言・速記録九丁)しており、古畑第一鑑定においてこの加える血球の性質の面での配慮に欠けていると認めるべき根拠もない。加うるに、古畑第一鑑定に際して加える血球量を誤つたがためにこのような結果が出た、と解すべき証左は全くない。ところで、抗血清原液の力価は個体によりさまざまであつて、これを2n(2のn乗)倍に稀釈してもなお対応する血球を加えた時に凝集力を持つが2n+1〔2のn+1乗〕倍に稀釈した場合に同様にして凝集力を示さなくなるときその抗血清(凝集素)の力価は2n〔2のn乗〕であるということになり、力価は2n〔2のn乗〕として表わされるのが通常であるから、力価といつても幅がありこれが〔++〕の凝集力を示したからといつても次の稀釈によつてそのまま〔++〕の力が維持される場合と+に減弱する場合があり、さらにもう一回の稀釈によつて+になる場合も-になる場合もあると認められる。船尾証人も当審(同証言・速記録一七一丁)で、八倍価の凝集素を使つた証一一号夏メリヤスシヤツについて、「この場合一六倍になると-が出ておりますね、この場合一四倍に稀釈した時に-になるのか、一五倍で-になるのか、そういうことはやつてみないとわからないんですか。」という問に対し、「ええ、やつてみないとわかりませんし、通常は二、二でやつてますから、そういうことはやらないわけですね。」と答えている。しかし、そもそも、証一一号の夏メリヤスシヤツの稀釈倍数4のところと、軍隊用袴下の稀釈倍数1のところと全く同じであると考えてよいかが問題である。古畑第一鑑定書には、凝集素吸収試験による血液型の検査について、「………可検斑痕の適当量を細かく切つて試験管にとり、これに適当に凝集素価を有する様に稀釈した………凝集素の適当量を加え………。」と記している。そして岡嶋証人は当審第一回証言において(同速記録一八六丁、一八七丁)「これはこのような検査をやるときに始終あることでして、血清を薄めて使うわけですけれども、そのときにどの検査においても同じ濃度に薄めるということではなくして、こちらに使つた血清とこちらに使つた血清との間に或る程度のずれがある。」と述べている。当審第二回証言でも、予め適当に抗血清を調整しておくと証言している(当審第二回証言・速記録三丁)。軍隊用袴下の稀釈倍数1のところの凝集素が夏メリヤスシヤツの稀釈倍数4のところと凝集能が全く同じとする根拠はない。また、そのようにする必要もない。むしろ、それは軍隊用袴下の被検斑痕から得られる見込量に応じて適当に稀釈されたものであつたと解するのが、古畑第一鑑定書を見ての自然な解釈でないかと考えられる。もち論その後の検査においては倍数稀釈すべきであり、そのように稀釈した趣旨に鑑定書は記載されており、これを否定すべきものは何もない。船尾証人はこれを稀釈を誤つたものではないかとも言つているが、誤つたにせよ、意図的にしたにせよ、古畑第一鑑定書を素直に読めば、軍隊用袴下についてはこうした反応を起すように稀釈された抗血清を用いたと読めるのであり、これがため抗A凝集素の対照部における反応が〔++〕と出たと解するのが自然であると思われ、抗A凝集素の対照部において〔++〕の成績が出たことを否定する事由はないと思われる。

もつとも、吸収試験における判定に当つては可検斑痕部と対照部の比較が大切なことは岡嶋当審証言(同上第一回証言・速記録六七丁以下)の指摘するところであり、船尾当審証言も肯定して(同速記録二二丁)いるところである。その意味でどこを対照部として取るかは重要なことであり、岡嶋証人もそれを認識していたから(同当審第二回証言・速記録七二丁)、古畑第一鑑定においてそれが万全であつたか否かは明らかでないが、少なくとも岡嶋当審証言によつて、同人の考えにおいて不適切と思われるところを取つたという事跡は窺われない。

古畑第一鑑定において斑点の部と対照部との間に有意の差が出ていること自体は、これを否定すべき特段の事由が認められぬ限り、やはり、それなりの証拠価値を認めるべきである。また右のような特段の事由は見当らない。しかるに、原決定は古畑第一鑑定の軍隊用袴下に対する凝集素吸集試験の検査成績として、検体斑点部の1 2 4倍稀釈の抗A凝集素に対する吸収反応が+--、同各倍数稀釈の抗O凝集素に対する吸収反応も同様+--であることのみに着眼して、古畑第一鑑定時に血液型判定に使われていた抗O凝集素はO型血液のみならず、他のいずれの血液型によつても、A型あるいはB型の血液が抗Aあるいは抗B凝集素を吸収するのと同程度に吸収される性質を有するものであると認定したのは、明らかに誤りであるとせざるをえない。船尾証人も当審において(同当審証言・速記録三四丁、一八三丁)、同人自身昭和三〇年頃から抗O血清をO型血液と他の型の血液と区別するために使用することができるようになつたが、昭和二五~六年頃でもたまたま成功するような(抗O)血清に当る人があつたと証言しており、同証言自体古畑第一鑑定において使用した抗O凝集素の性質に関する岡嶋当審証言を一般論としては否定したことにならない証言になつているとも言いうる。古畑第一鑑定において用いられた抗O凝集素は、O型以外の血液において、それが吸収される程度は、その血液型に対応する抗Aあるいは抗B凝集素が吸収される程度よりも、低かつたものと認められる。

〈3〉 ところで、古畑第一鑑定の血液型試験は一つ一つについて試験することは困難であるとして、人血試験で費消したものを除きこれらを集めて試験を行つている。できれば斑点一つ一つについて行うに越したことはなく、微量のためであるというからやむをえないところとして諒解すべきであろう。問題はそれによつてその試験結果は証拠価値を失うか、どの程度の証拠価値を有するかである。

原審及び当審の船尾証言において、血痕がA型、B型、AB型であるのに、微量すぎて単独では抗A、抗B凝集素を吸収しない場合でもこれら血痕が混合するとこれら血痕中の抗O凝集素に対する吸収力が相加される結果抗O凝集素を吸収する作用をする場合があるとの点は、A型、B型、AB型血液の抗O凝集素に対する吸収力が抗A、抗B凝集素に対する吸収力に劣るとすればもち論、これが同程度としても本件国防色ズボンにおける抗O凝集素に関する検査成績が対照部・斑点部で二段階差を示しているから、O型血液が皆無であるのにO型と誤つて判定されたとすることはできないものと認められる。右船尾証言によれば、O型以外の血液の抗O凝集素に対する吸収力が抗A、抗B凝集素に対する吸収力と同じであり、かつ例えばA型血液とB型血液が等量程度混在する場合には抗A、抗B各凝集素は血液微量の故にともに吸収されないのに抗O凝集素が吸収されることがあるとし、その理由とする、A型血液中に含まれる抗A凝集素を吸収する力をnとすれば抗O凝集素を吸収する力もnであるから(B型血液についても同じことがいえる。)A型血液とB型血液が等量混在する場合抗A、抗B凝集素を吸収する力はともにnであるのに抗O凝集素を吸収する力は2n〔2のn乗〕となり二倍の力でもつて作用するためであるという、いわば極限の場合を想定してみても、本件において集めた血痕量がA型血痕とB型血痕の等量程度であつたとすることは前記けしの実大、半米粒大の各血痕量のいろいろな組合わせを作つてみても困難であること、本件国防色ズボンの凝集素吸収試験の成績は

表〈省略〉

であつて、抗O凝集素の性質を、船尾証人のいうようにO型血液に対してもその他の血液型の血液に対しても同程度に反応するものであつたとしても、本件のごとく稀釈倍数1の抗O凝集素をも吸収し血痕部と対照部との間で二段階差を示しているのに抗A、抗B凝集素が全く吸収されないということは、船尾証人のいうようなO型以外の血液の混合したものではない証左であると考える。何故なれば、前記のように抗O凝集素に対する吸収能を2n〔2のn乗〕とみても、二段階差を示したということは、nの力でも反応を示すことを意味し、O型血液以外の混在であつたなら、理論的に、抗A、抗B凝集素についても抗O凝集素に対するnの力と同程度の反応を示すものとしなければならないからである。まして、本件において使用された抗O凝集素の性質は、前記のとおり、A型血液あるいはB型血液またはAB型血液における抗O凝集素の被吸収度より、対応する血液型血液における抗A凝集素または抗B凝集素の被吸収度の方が優つているのである。したがつて本件血痕中にO型血液の存在したことは否定しえないものといわなければならない。船尾証人のA型・B型あるいはAB型血液が混合した微量血痕がO型血液としての反応を示すことがあるとの見解も、抗O凝集素の性質をO型血液のみならずA型血液B型血液あるいはAB型血液にも同程度に反応するものであることを前提としており(船尾当審証言・速記録三九丁)、前提を異にし本件には適切ではない。

〈4〉 もち論本件は、前記のように一つ一つについては試験することの困難なような微量斑痕を集めて試験したものである。若し、その中に、本件で用いられた抗A凝集素あるいは抗B凝集素に反応を示しえない程の微量のA型血液あるいはB型血液が含まれていたとしても、本試験によつてはこれを見出しえないであろう(岡嶋当審第二回証言・速記録二五丁)。その意味で理論的には、本試験だけで本件斑痕のすべてがO型血液であるとはいいえないであろう。ただ、それにしても前記のような類似した性状・付着の位置等よりみて、本件においては、その可能性は極めて低いものと言いうるであろう。いずれにしても、本件斑痕の中に、少なくとも古畑第一鑑定書で示すような試験結果をもたらす程度の量のO型血液が存在するとの判定は、肯定しなければならない。古畑第一鑑定はそれなりの証拠価値を十分有しているのである。この点に関しても、古畑第一鑑定に信憑力がないとする原決定の理由に左袒することはできない。

(ハ) 原決定は、古畑第一鑑定は、古畑鑑定人が、本件のような検査に必ずしも習熟していたとは思われない当時大学院特別研究生の岡嶋道夫を補助者にし、本件検査の実験あるいはその結果の判定はそのほとんどを岡嶋が実際上行い、古畑鑑定人のこれに関与する程度はむしろ低かつたとして、血液型判定を誤る危険性があつたとしている。しかし、鑑定人が補助者を使用することを、ただそれだけで、一概に非難できないことは言うまでもないところである。もち論、鑑定に対し責任を負うのは鑑定人である。しかし、鑑定人がその責任で信頼する補助者を選び、その信頼の度合に応じてそれ相応の補助行為をさせるのは、鑑定人の自由である筈である。要は責任と信頼の問題である。のみならず、本件検査に当つた岡嶋道夫は、昭和二三年一〇月東京大学大学院特別研究生として東京大学医学部法医学教室に属し、本件鑑定に関与した昭和二六年三月~六月までに既に二年半余を閲し、その間法医学に関する基本的知識を学びつつ右法医学教室において、検査の仕方や判定の仕方を実地に習得するとともに、鑑定人または補助者として各種法医鑑定を多数手掛け、検察官が当審に提出した昭和五四年七月三日付東京大学医学部長織田敏次作成の「捜査関係事項照会書の回答について」と題する書面や岡嶋当審第一回証言(同上速記録一四一丁)によると、血液型に関係ある鑑定だけでも既に二〇件以上、内、血痕鑑定も八件を数え、その他、同人は昭和二四年頃埼玉県警察本部から依頼され、嘱託医となり、血痕検査もかなりの数手がけた経験を有していたのである。弁護人は、原審における昭和五三年一二月一一日付意見書で、三木敏行教授の「血液型の法医学的応用」と題する論文に引用されたボイドの「血痕の血液型検査は、経験の豊かな技術者が行えば充分信頼性のある結果が得られる。しかし、それだからといつて、経験のない未熟者はもちろんだが、たとえ血液型の他の方面にはいかに習熟していても、血痕検査という特殊な仕事に少しも経験がない者には、うまくできないことを強調したい。」という言葉を援用主張しているが、岡嶋が古畑第一鑑定当時右にいう技術者として豊富とまでいえるか否かは評価の問題ではあろうが、少なくとも経験の乏しい者とは言えなかつた、と考える。もち論本件は微量血痕であり、慎重な試験を要すること、前示したところであるが、微量血痕なりに配慮した試験をしたことも認められ、内容的にみても、古畑第一鑑定の結果に原決定の指摘するような非違はなく、それなりの信憑力のあること前記のとおりである。古畑第一鑑定が大学院特別研究生を補助者に使い、原決定の記載する(原決定三二丁以下)検査経過を経たものであっても、それ故に判定を誤つたとか、古畑第一鑑定は信用性に乏しいものと認めるべき証跡は見当らない。

2 以上に検討したとおり、原決定が、古畑第一鑑定の信用性に関する船尾鑑定、岡嶋原審証言により、古畑第一鑑定を信用性に乏しいとした所以のところは、当審における事実取調の結果も加えて検討すると、理由がなく、古畑第一鑑定は国防色ズボンにO型の人血と推量されるものの付着をかなり高度に証明するものであつて、古畑第一鑑定を信用性に乏しいものとは到底言いえないことが明らかになつたと考える。

もつとも、本件斑痕に関する同鑑定は微量血痕に関するものであり、上記検討の過程で明らかになつたとおり、古畑第一鑑定の国防色ズボンにO型人血が付着していたとの点に関する同鑑定だけでの科学上の証明としての証明の程度に若干の限界のあることは肯定せざるをえない。例えば、人血試験を一つ一つの斑点についてできなかつた点について、科学上の証明としては萬全でなく議論もあろう。数個の斑痕を集めて血液型試験を行つた点において、本件斑痕すべてがO型の人血であるとする科学的証明ではなく、科学としては微量のA型、B型又はAB型血液の混在の可能性を否定しえない実験結果であること、前記のとおりである。しかし、この点を重視しても、本件斑痕中に少なくとも古畑第一鑑定の検査結果をもたらすようなO型血液の付着、それとも人血と推量される血液の付着があつたこと、をかなり高度に証明するものであることに変りはない。更にここで注意すべきことは、本件が微量故に一回の実験しかなしえなかつたことである。科学の再現性としてみる限り、十全なものでないことは岡嶋証人自身認めているところであり(岡嶋当審第一回証言・速記録二〇五丁以下)、一回の検査の反応がこうなつたという趣旨に鑑定書を解釈すべきであるとも述べている(岡嶋原審証言・速記録四六丁)。古畑第一鑑定書も検査方法を記載した上、注意深く、「……本検体の血痕の附着量は極めて微量であるため、充分の検査をすることが出来なかつたが……。」と記し、更に鑑定主文も「証第二十号国防色ズボンには人血が附着している。この血液型はO型と判定される。」と記載している。血液型はO型であると言い切つてはいないのである。古畑第一鑑定自体において、抽象的表現ではあるが、既にその証明力の程度に若干限界のあることを示しているのである。その意味で古畑第一鑑定の信用性に関する船尾鑑定・岡嶋原審証言は、古畑第一鑑定自体が抽象的に表現していたその科学としての証明力の程度・限界を、より具体的に示したものとは言えるが、それでもなお、古畑第一鑑定は国防色ズボンにO型の人血の付着を推量させるかなり高度の証明力を有するものであり、十分証拠価値を有するものといわねばならない。しかも、本件斑痕についての血液型検査において抗O凝集素に対し斑点部・対照部において二段階差という明瞭な差異を示していることは、一回だけの検査ではあるが、それなりの信頼すべき鑑定として評価すべきであると考える。

3 本確定判決をした裁判所は、古畑第一鑑定の、右のような、それ自体だけでの証明力の程度・限界について、どのような認識があつたか明らかでない。しかし、本件斑痕が、O型の人血の付着によつて生じたものと認定し切るには、古畑第一鑑定だけではその証明力に限界があるといつても、今問題にしているのは、古畑第一鑑定の科学の証明としての完全性の有無ではなく、裁判の証拠となりえるか否か、どの程度の証拠価値があるかである。

裁判上の証明は、証拠それ自体の評価だけではなく、他の証拠との対比検討総合の上になされるのである。他の証拠との総合認定に際し、正当に評価しそれなりに位置付けることが肝要である。同鑑定自体をみても、上記のような限界はあるにしても、国防色ズボンの本件斑痕は抗O凝集素に対し二段階差を示すなど、高度の蓋然性をもつてO型の人血が付着したものと推量すべきものであること、上記のとおりである。請求人にとつては他人の血液であるO型血液が、請求人の着衣に付着するような機会があり、その時付着したものであるとの状況があれば、積極的に本鑑定と互に補強し合うこととなる。本件事犯の被害者香川重雄の血液型がO型であつたことに疑義はない。右香川の血液と本件斑痕が結びつく状況があることを示す証拠が他にあると、ますますO型の人血であり本件事犯に際し付着したものであるとの認定が強まり、証拠が互に補強し合つて前記古畑第一鑑定の科学としての証明の限界を打ち破るだけでなく、古畑第一鑑定更に国防色ズボンは請求人の本件事犯に対する証拠としての重要性をいよいよ増すことになる。本確定判決に際し取調べられた証拠(以下、本件旧証拠という。)中に、本件六個の斑痕が同一性状でないとか同一由来でないとして、O型人血であることを否定するものを窺わしめるような証跡はない。かえつて、香川重雄の血液と本件斑痕を結びつけているものとして、一応請求人の検察官に対する昭和二五年八月二一日付供述調書(以下、第四回検面調書という。)をはじめ捜査段階での請求人の自白がある。本確定判決は、国防色ズボン、古畑第一鑑定、請求人の第四回検面調書をはじめ、その挙示する証拠を総合して本件事犯を認定している。請求人は右第四回検面調書において、本件事犯に際し、国防色ズボンを着用し、これに香川重雄の血液が付着しこれを洗濯した旨を供述している。してみれば、国防色ズボンの存在及びこれに香川重雄と同型のO型の人血の付着を推量させる古畑第一鑑定書は、右請求人の供述を補強するとともに、右請求人の供述はいよいよ国防色ズボンに存在した本件斑痕がO型の人血であつたと判定する古畑第一鑑定を補強しその証明力をますます高めるもの、といわねばならぬ。即ち、請求人の第四回検面調書の供述と国防色ズボン・古畑第一鑑定は互に補強し合つているのである。こうしてみると、請求人の第四回検面調書中の、本件事犯時国防色ズボンを着用しそれに被害者の血液付着があつたとの供述が不合理で措信できないものとなれば格別、その際には、その面からの再審開始許否を検討すべきであつて、そうでなければ、本確定判決をした裁判所の審理中に、古畑第一鑑定の信用性に関する船尾鑑定や岡嶋原審証言が提出され、本件旧証拠と総合されたとしても、それがため、本件斑痕が同一由来でないとか、O型の人血でないとか、との疑いが生ずるわけでもなく、請求人が捜査段階で自供しているとおり本件事犯に際し請求人が国防色ズボンを着用しており、香川重雄の血液が付着し本件斑痕が生じたとの見方に、古畑第一鑑定を措信できないものとすることによる合理的疑いが出てくるわけではない。本確定判決をした裁判所が、古畑第一鑑定の証明力に限界があるとみたか否かいずれであつたにせよ、また同鑑定の信用性についての船尾鑑定、岡嶋原審証言が古畑第一鑑定の証明力の限界を前記のように具体的に明らかにしたにしても、ただ、右船尾鑑定、岡嶋原審証言が提出されたというだけでは、なんら本確定判決の事実認定に合理的疑いが生まれるものではなく、その意味での右船尾鑑定、岡嶋原審証言は刑訴法四三五条六号所定の再審開始事由たる証拠ではない。

以上のとおり、検察官の本点に関する所論は理由がある。

もつとも、香川重雄の血液と本件斑痕を結びつけている請求人の捜査段階での自供が措信できないとなると、更に検討を要することとなるのであつて、この際にはこの方面から再審開始事由があるか否かを考究しなければならないこと、上記のとおりである。

三  着衣の洗濯について

検察官の所論は、原決定は船尾鑑定を根拠にして、請求人が自白するように国防色上衣(証一八号)を、血痕付着後間もなく一回水洗いし、約四時間後石けんを使つて洗濯した場合には、ルミノール試験、ベンチヂン試験(間接法)が陰性になることはないと認めるのが相当であるとするが、

〈1〉 血痕の付着した衣類を洗濯した場合血痕予備検査のルミノール試験又はベンチヂン試験が陰性となるかどうかは人血付着部位の広狭、付着血痕の多少、洗濯の方法、程度によつて異なるものであるところ、船尾鑑定の洗濯の方法、程度は請求人の供述する方法程度に合致しないから、これを根拠にして判断すべきでなく、特に、船尾証人がいわゆる松山事件で鑑定した洗濯実験ではベンチヂン反応(間接法)が陰性となつたというのに、本件の洗濯実験では陰性とならなかつたと証言しているのは矛盾もはなはだしく、

〈2〉 国防色上衣はベンチヂン反応が陰性であつた古畑第一鑑定以前に遠藤中節鑑定人によりルミノール試験が行われていたことが判明しており(その試験結果は陰性であつたと認められる。)、船尾証人も認めるようにベンチヂン試験(間接法)は先にルミノール試験をするとその影響を受けて陰性となることがある点を考慮すると、国防色上衣が古畑第一鑑定でベンチヂン試験(間接法)陰性を示しているのは当然であり、

〈3〉 前記遠藤中節鑑定人の許においてルミノール反応が陰性であつた点も、ルミノール反応はベンチヂン試験に比し鋭敏度が著しく劣り洗濯により陰性となりうることを考慮すれば当然のことであつて、国防色上衣及び国防色ズボンの洗濯についての請求人の自白に疑問を持たざるをえないとする原決定の判断は誤りであり、船尾鑑定は刑訴法四三五条六号にいう明白性ある証拠ではない、というのである。

1 先ず、国防色上衣及び国防色ズボンに対する血痕予備検査の成績をみると、次のとおりとされている。

(一) 国防色上衣

当審で検察官の主張する国防色上衣に関する遠藤鑑定

当審に至るまで、遠藤中節鑑定人により国防色上衣の検査されたとの主張も証拠もなかつたところ、検察官は当審に至つて、遠藤中節鑑定人によりルミノール試験が行われ、その結果は陰性であつたと主張し、香川県警察本部刑事部鑑識課田岡正雄作成の報告書や村尾順一の検察官に対する昭和五四年一一月七日付供述調書を提出してきた。

古畑第一鑑定

本物件には、血痕を疑わせる様な斑痕が認められないのみならず、ベンチヂン反応(間接法)が陽性を呈する部が全くない。よつて本物件には現在血痕がついていないものと判定した。

古畑第二鑑定

鑑定資料の汚斑についてベンチジン検査(間接法)を実施したがいずれも陽性を示す部位は認められない。なお念のためルミノール試薬を資料全体に噴霧して詳細に検査したが血痕と推定されるような反応は認められない。したがつて、本資料に血痕らしい付着物を証明することはできない。

(二) 国防色ズボン

遠藤鑑定

前掲第四の二1(イ)〈1〉記載のとおり

古畑第一鑑定

本物件の右脚前面の下半分には木札を付した部が二ケ所あり、米粒大の部分が切り取られている。本物件には各所に赤線で印をつけられた斑点が多数あるが何れもベンチヂン反応が陰性であるので血痕ではない。又右脚前面の中央より稍下方及び右脚後面の下方に白チヨークでマークせられた部が三ケ所あるが、その部にはケシの実大の暗褐色の斑痕三ケ(写真(同鑑定書添付のもの)十乃至十三の1、2、3)及び半米粒大の暗褐色の斑痕一ケ(写真(同鑑定書添付のもの)十一及び十三の4)が認められ、其斑点は何れもベンチヂン反応陽性である。

古畑第二鑑定

資料には赤印のつけてある個所で、一見血痕様の斑点が多数みられるが、これらの箇所は血痕予備検査はいずれも陰性であつた。しかし、右裾部の後側で、すでに前の鑑定のため切り取つたと思われる部位に隣接したところ(同鑑定書添付図-2-参照)に淡赤褐色の付着斑が認められた。そこで、その部位について前記の血痕予備検査(当裁判所註、ベンチヂン法及びルミノール法)、実性検査及び人血検査を試みたところ、いずれも陽性の反応を示し、付着斑は人血痕であることが明らかとなつた。

2 次に、一般に、血痕付着衣類に対する血痕予備試験(ルミノール試験及びベンチヂン試験)が洗濯によりどのような影響を受けるかについて考察する。

船尾鑑定

衣類付着血痕については、付着血痕量、付着後水洗い又は石けんによる洗濯までの経過時間、洗濯程度、被付着布片の種類などによつて多少異なるが、一般的には水洗い又は石けんによる洗濯によつてルミノール化学発光試験及びベンチヂン予備試験(直接法)は影響されないといわれており、薄茶色木綿ギヤバジン織半ズボン及びさらし木綿の布地に血痕を付着(布地を張り生体静脈血を五〇~六〇個位の斑痕に分散付着させる。つまみ洗いできるように血痕一個あたりの布の大きさは普通のハンケチの二まわり位小さいものにする。)させたのち間もなく各五分間流水中にさらして水洗いし、さらに四時間後石けんを用いてもみ洗い、すすぎを二度くり返し(石けんを二回つけて二回もみ洗いし一回五秒間でそれぞれ五秒間水洗いする。肉眼で付着を認めえない程度になる。)自然に乾燥させ、三か月後にルミノール化学発光試験及びベンチヂン予備試験を行つたところ、ルミノール試験及び直接法によるベンチヂン予備試験はいずれもほとんど影響されなかつたが、間接法によるベンチヂン予備試験は反応が減弱したが陰性化はほとんど認められなかつた。なおルミノール試験後に間接法によるベンチヂン予備試験を行うと陰性化し、直接法によるベンチヂン予備試験も影響がみられた。したがつて、血痕付着後間もなく水洗いを一回、その後約四時間してから石けんを使用して洗濯してもルミノール化学発光反応並びにベンチヂン反応(間接法)が不可能になることはないと推測される。

当審に検察官が提出した船尾忠孝作成の松山事件報告書及び同事件における同人の昭和三九年一月一四日証言速記録各写による船尾松山事件例

新しい白木綿布(普通のハンカチよりも二まわり程度小さい洗濯しやすいものとみられる。)に血液を滴下させ日の当らない部屋で一時間放置し、女子職員二名に十分(ベンチヂン反応の陰性になるように洗濯すれば賞品を与えると伝える。)いろいろな石けんをつけて一〇分間洗濯させた場合、あるいは血痕付着一時間後に流水中に一七時間浸漬せしめ前記同様一〇分間女子職員に十分洗濯させた場合、いずれもベンチヂン直接法は陽性であつたが同間接法は陰性であつた。

同事件においてズボンにヌルヌルと多量の血液が付着したと仮定して、更に普通の洗濯を二度行つた程度ではベンチヂン法による血痕予備試験成績が陰性となることはありえない。

三上鑑定

同人の研究員の指導実験において人血を付着させた一五センチメートル四角の木綿布を自然乾燥させ、直後洗剤を使用し洗濯機で記載通りの洗剤の用法で(一五分洗剤で洗い三〇分間水洗いする。)洗濯して乾燥すると血痕の付着部位は不明となる。同じ方法による洗濯、乾燥をさらに二回(合計三回)行つた場合でもルミノール試験及びベンチヂン試験(直接法)とも陽性に反応したとし、本件犯行当時犯人が国防色上衣、国防色綾織軍隊用上衣(証二一号)国防色ズボンを着用して人血付着後間もなく水洗いを一回、その後四時間してから石けんを使用して洗濯したとすれば、上記実験の結果のごとくなるものと思考されるが、実際では鑑定資料に対する人血付着の部位の広狭、付着血痕の多少、洗濯の方法(例えばもみ洗い等)により左右され、血痕予備試験が陰性になることは否めない。

古畑・池本回答書

衣類などに人血痕が付着した場合、付着直後乾燥しないうちに石けんを使つて二回にわたつてよく洗たくすると血痕予備検査、血真実性検査及び人血検査が不可能になることはありうると考えられるが、しかし一般にはよほど注意して洗たくしなければ、血液型抗原が繊維などの間にごく微量でもしみついて残ることがある。もし国防色上衣に血痕が付着しても、その直後前記のように石けんを用いてよく洗濯した場合には、鑑定書(古畑第二鑑定)に記載した血痕検査法(ベンチヂン反応試験(間接法)及びルミノール試験)によつて検出不可能なことはありうると思われる。

当審に検察官が提出した平島侃一発表の「水浸により処理された血痕の血痕検査成績(科学と捜査五巻二号所載)」という論文写に記されている実験例

右実験例中本件に関係あると思われるものを摘記すると、木綿、ラシヤ、絹に人血を点状に付着させ、付着後自然乾燥で三~五週間の間にこれら材料を適当の大きさに切り、簡単洗濯(水道水で五回揉む。)あるいは入念洗濯(簡単洗濯の場合と同様の動作を加えて肉眼的に血痕部が認められない程度まで洗濯し、二%石けん水に一時間、水洗いを加える。)してベンチヂン(直接法)検査をしたところ、簡単洗濯では陽性を示し、入念洗濯では疑陽性を示し、ルミノール試験でも簡単洗濯では陽性であり、入念洗濯では陰性である、という。

原決定が刑訴法四三五条六号にいう新規明白な証拠であるとする船尾鑑定は、人血痕への洗濯の影響の有無について、「付着血痕量、付着後水洗いまたは石けんによる洗濯までの経過時間及び洗濯程度、被付着布片の種類などによつて多少相異するが、一般的には、水洗いまたは石けんによる洗濯によつてルミノール化学発光試験及びベンチヂン予備試験(直接法)は影響されないといわれている。」とし、多少とは言つているが、付着血痕量、付着後洗濯までの経過時間、洗濯程度等によつて洗濯によるルミノール試験やベンチヂン試験への影響に差があることを肯定している。同様、三上鑑定書も古畑・池本回答書も、それぞれ洗濯の程度によつて血痕予備試験に差異が生ずることを認めている。どのような時にどのような差異を生ずるか、上記の各実験結果は一応これを考える足掛りになるであろう。試みに、ルミノール試験につき、上記各実験結果を洗濯方法に着眼して順次列記すると、次のとおりとなると思われる。

1 付着後三~五週間の間に水道水で五回もむ……陽性(平島簡単洗濯)

2 付着後五分あるいは一〇分後にそれぞれ五分間水洗いし、更にそれぞれ四時間後に石けんをつけて五秒間洗濯し五秒間水洗いすることを二回くり返したもの……いずれも陽性(船尾鑑定)

3 付着後自然乾燥させ直後に洗剤を用い洗濯機で一五分洗い三〇分間水洗いする。それをまた自然乾燥させ、同様の洗濯方法を都合合計三回くり返す……陽性(三上鑑定)

4 付着後三~五週間の間に水道水でもんで付着部位が判明しない程度まで洗濯した後、二%石けん水で一時間水洗いをする。……陰性(平島入念洗濯)

以上を通観すれば、船尾鑑定のいう洗濯程度のルミノール試験に及ぼす影響の差異が概ね明らかであろう。やはり石けん等を使つて余程入念に長時間洗濯しないとルミノール試験の反応は陰性化しないと言いうると認められる。前記再一審に出た古畑・池本回答書が「……一般にはよほど注意して洗濯しなければ血液型抗原が繊維などの間に残ることがある……。」としているのも同趣旨と解される。右の趣旨において、船尾鑑定中の前記引用部分は肯定することができるとともに、上記各実験例はその意味を、より具体的に示すものである。更に別の面から考察すれば、洗濯の結果肉眼的には血痕付着を視認できなくなつてもルミノール反応は陽性を呈する場合があるということである。検察官は論点を異にする場所においてではあるが、「遠藤鑑定において『洗濯を免れたものがあると思われる』との記載の意味は、洗濯はしたが洗濯で血痕が完全に消滅する効果があがらなかつたことを言い、飛沫血痕の付着した衣類を洗濯したのに完全に血痕を消滅させることができなかつた場合、残存血痕の態様として衣類に飛沫血痕の外形をそのまま残しているものと、その外形が損われて繊維の中に付着した形で残つているものがある。」という。ルミノール反応は血液中のヘモグロビンの触媒作用であるところ、検察官のいう洗濯後の残存血痕の態様にこのような種類があることは、池本当審証言(同上速記録六一丁)によつても肯定できるし、したがつて、洗濯後の残存血痕の態様とルミノール反応との関係はルミノール反応の鋭敏度も考え、概ね次のような色々な場合があると考えられる。なお、検察官の即時抗告理由補充書(三〇頁)において、検察官は血痕足跡を区分しているが、これに対応させ名称を付すると、次の( )内のようになる、と考える。

(1)  付着したままの外形を留め肉眼的に視認でき、反応陽性を示すもの(顕在血痕)

(2)  付着した時の外形は損われ、例えば周囲ににじんだ形等であるが、なお肉眼的に視認でき、反応陽性を示すもの(血痕よう斑痕)

(3)  肉眼的に視認はできないがなお反応陽性を示すもの(潜在血痕)

(4)  肉眼的に視認もできず反応陰性を示す場合(血痕消失)

以上ルミノール反応について検討してきたが、ベンチヂン反応はルミノール反応に比しより極めて鋭敏度の高いものである。船尾証人は、ルミノール反応は五、〇〇〇倍から一万倍であるに対し、ベンチヂン反応は一〇万倍から二〇万倍であると述べている。(同原審第二回証言・速記録七~八丁)。上記ルミノール試験につき検討した所は、より一層ベンチヂン試験に妥当するものと考える。

3 次に、請求人が自白する着衣の血痕付着箇所及びその洗濯の程度について考察する。

(イ) これに関し、本確定判決が証拠に挙示する請求人の検察官に対する昭和二五年八月二一日付第四回供述調書(第四回検面調書)の記載は次のとおりである。

請求人は本件犯行当時、前記国防色上衣、軍隊用袴下(証一九号)、前記国防色ズボン、警察官用国防色綾織上衣(証二一号)、ゴム製バンド(証二二号)、白木綿長袖カツターシヤツ(証二三号)及び靴下(証二四号)を着用し、被害者を刺身庖丁で殺害したのち自宅に帰る途中犯行現場からほど遠からぬ帰来橋付近の財田川で国訪色上衣、庖丁、靴、手を洗い、上衣を請求人方表の竹竿に干し……その後四時間位経た朝六時半ころ起き一人で先に朝食をすまし、国防色進駐軍用上衣は丸ずけにし、国防色ズボンは脛から下の血痕の付いている所をつまみ、いずれも石けんで洗濯しましたが、右の上衣は特に血の付いていた胸とすそ、右そで等を特別念入りに洗つて竿に干したのであります。……体はつらかつたけれども無理して午前七時ころ常のごとく多田安次の山へ炭焼に行き夕方帰りました。というのである。

更に、捜査段階でのその他の請求人の供述調書のこの点に関する記載を見てみよう。

司法警察員宮脇豊に対する昭和二五年七月二六日付第一回供述調書(以下第一回員面調書ともいう。)

……上衣(進駐軍の配給の青色のサージの上服で左の胸のあたりにSの字のある古品のもの)も胸のあたりに夜目にもベツトリと血のついていたのが分つたので脱いで(川で)丸洗いをし、自宅表の物干竿に干した。……午前六時半ころ起きて見ると、サージのズボン(黒のサージ服海軍の下ズボン)にも「すね」のあたりに血がついていたので親に知られぬ中に石けんで泉の端で上服と一緒に干しました。

同七月二七日付第三回供述調書

私が犯行の時着ていた上服とか海軍用下ズボンは当夜と暁六時頃に洗つたが血が着いておつては証拠になり逮えられる虞があるので石けんをつけて一週間位後(三月五、六日頃)の昼私宅の井戸の端で洗いましたから血は全然ついていないと思つております。(なお、三月五、六日頃の洗濯については、他にこの洗濯を述べた調書はない。この三月五、六日頃の洗濯を認めることはできない。同年八月一七日付手記にこれを取消した記載がある。検察官もこの事実があつたと主張している事跡はない。)

同七月二九日付第五回供述調書

夜が明けて枕元に脱いであつた紺色の下ズボン(紺色手織りの古いもの)の膝の当りに血がついていたのでその処丈けつまみ洗いをしましたが、表の竿に干してあつた上服(綾織り木綿地の青みがかつた国防色夏服・警察職員用制服であつたもの)も夜逃げしなに暗がりで川で洗つた丈けなのでは血が十分に洗えていないと気になつたので更に下ズボンと一緒に石けんをつけて洗いなおして干したのであります。

同八月五日付第七回供述調書(以下第七回員面調書ともいう。)

………川の中に降りて血のついた上服(進駐軍放出のS字入り濃緑色の上服)、庖丁、靴の裏、手等を充分洗つて、洗つた上服は……帰つてから物干竿にかけて乾く様にした。……朝六時半頃に起きて見たら上服の胸のあたりと下の方(左)にボツボツと血痕がついておりますし、下服(木綿の黒ズボン)は裾の方に少しついていたので家の者に知られぬ間に井戸端で石けんつけてよく洗いました。洗つてから又表の竿に干しました。

(服の血のついている状況は、との問に対し)進駐軍放出のS字入り上服には前では右胸のあたりに点々と二、三ケ所及び一番下の方にベツトリと直径二寸位の大きさについておりました。袖は右袖の内側の先の方に点々と血の飛沫が五カ所位ついていました。黒木綿下服は一番下の裾の附近に(右股の)点々と三ケ所位ついていました。その他服に付いておらず……。(帰つてから服を何回洗いましたか、との問に対し)犯行当夜帰来橋の処で上服と靴、庖丁、手の血を洗い落し、帰つて寝て翌朝午前六時半頃上服の血の残つていたもの下服の裾の血のついていたものを洗い直しましたが下服は当所へ来て風呂場で七月中旬洗つたが直ぐ提出しました。(図面を添付している。)というのである。

(ロ) 右のような請求人の自白中着衣の血痕のあつた部位に関する供述には、どの段階で認識したというのか、必ずしも明らかでないものもあるし、着衣の種類も色々と変遷しているが、

(国防色上衣)

上衣については果して終始同一のものを述べているのか疑問である(警察職員用制服であつたものと進駐軍配給の国防色上衣とは明らかに相違する。)が、血痕付着箇所については概ね一貫し矛盾し合つた供述がないので、原決定及び検察官の所論に添い、主として確定判決の挙示する第四回検面調書及びこれを補充するものとしての第七回員面調書により

(1)  右胸のあたりに点々と二、三箇所(胸のあたりに夜目にも分る程ベツトリとも表現する。)

(2)  下の方にベツトリと直怪二寸位の大きさに

(3)  右袖の内側の先の方に点々と飛沫が五箇所位

各付着していた趣旨の供述である、と解する。

(国防色ズボン)

本件事犯時に着用していたズボンが何であつたか、供述の変遷は激しいが、最終的に請求人は捜査段階の自白で国防色ズボンであるとしている。そして、本確定判決が証拠に挙示する請求人の第四回検面調書においては、脛から下の血痕のついているところとのみ供述していて、それ以上の詳細な供述はない。しかし、前記第七回員面調書に、木綿の黒ズボンであるとしてではあるが、一番下の裾の付近に(右股の)点々三箇所位ついていたとして、図面まで添付しており、第五回検面調書で本件事犯時に着用したのは国防色ズボンであるが、血液付着箇所は大体同じであると供述し、検察官は抗告理由でズボンの相違こそあれ、これが血痕付着箇所であり、これは、遠藤鑑定、古畑第一鑑定の血痕付着箇所とほぼ同一の場所で、右供述は捜査官がいまだ知らないことが明らかな犯人しか知りえない秘密性をもつ事実についての供述であるとまで主張するので、所論にそい右のような前提で以下に検討することとする。なお、「すね(脛小僧の意と解される)」あるいは「膝(膝頭の意と解される)」に付着していたと供述している調書もあるが、これは海軍の黒サージズボンあるいは紺色の下ズボンを着用していたと供述している段階のものであるところ、検察官は抗告理由において、これをも前記第七回員面調書あるいは第四回検面調書における血痕付着箇所に関する供述とほぼ同旨の供述であると主張するが、血痕付着箇所も明らかに相違するし、しかも「すね」とか「膝」との供述には左右の限定もつけず、これをも第七回員面あるいは第四回検面調書と同旨の供述であるとすることはできない。まして、右第七回員面あるいは第四回検面調書において供述する血痕付着箇所の外に「すね」あるいは「膝」にも血痕付着があつた趣旨を供述しているものとは認められない。よつて、国防色ズボンについては、

(1)  脛から下(右股の裾の附近)に点々三箇所位

各付着していたと供述しているものと解し、以下に考察する。

(ハ) また、洗濯の程度について考えてみるのに、

帰途に燈火も用いず夜中にした川での丸洗いはいうまでもないところ、請求人は朝六時半ころ起き出し七時ころには炭焼山へ行くべく家を出たと供述しているから、この三〇分の間に前記のとおり一人で先に朝食をし、洗濯をし、山支度をし、出かけた勘定になるから、上衣やズボンを洗濯すれば代りの服も考えねばなるまいこと、洗濯については寒さもありまた家人に見つからないようにとの配慮もあつて、いわば人目を忍んでの洗濯であり、当裁判所において検するに、国防色上衣は大きくかつごわごわしていて洗濯したとしても洗濯しにくかつたと目されること、を考えてみると、請求人の供述するところによれば、洗濯といつても程度には自ら限界があつたもの、といわざるをえない。

4 一方、本確定判決が証拠に挙示する請求人の第四回検面調書によると、請求人は

………とつさに香川をやつて終つて(殺す意)金を探そうと考え中腰の姿勢で庖丁の刃を下に向けて右手に本手に握り香川の右横から咽喉を目がけて突き刺したところ頭髪で顔をかくしていたため十分見えず手許がくるつて香川の左あごの当りに差し込んだのであります。この点については警察の御取調べでは香川の口中目がけて刺したと申しましたが咽喉を目がけて突いたのが本当であります。またこれまでに香川に庖丁を突きつけて金を出せと問答したごとく述べたこともありましたがそれは事実ではありませんでした。

右のごとく庖丁で香川の顔面を一突きして瞬間そのまま刺していると香川は「うわあ」と二、三回大きな声を上げ左手で顔に突き刺つた庖丁の刃を握つたので私は直ちに庖丁を手許に引くと香川がすぐにかけ布とんを両手ではねのけて上半身を起し敷布とんの上に座り何か大きな声を上げましたが何と叫んだのかよく覚えておりません。私はその声が裏の久保国助にでも聞えると困ると思い中腰で矢つぎ早に香川の右顔面部当りを二、三回突くと香川は私が入つたふすまの方へ逃げようとしましたので私は同人の背後からその頭部を目がけて一、二回庖丁で切り下げ香川の前面をふさいで香川の方を向いて入口に立ちました。すると彼は今度は北側の障子の方へ向つて這ふて行き障子のさんに手をかけたので私は背後から同人の腰の当りから一突したと思います。

そして香川は指を障子にかけたまま目では私の持つている庖丁の方を見乍らいざり始め何か救いを求めると思われるような声を二声三声上げましたがその声はもう先程の声よりもよほど低くなつていました。そこで私は自分の方を向いている香川の顔面目がけて四、五回直突きをやると彼は中腰になつて私の方を向いたので私は同人の首の辺りを三、四回位突きました。すると彼は箪笥の方へ頭を向け足を北側の障子の方へ向け斜めに仰向けになつて倒れ手足や全身をぶるぶるとふるわせましたがこの時はもう声を立てませんでした。

………そして私は香川が後で生き返ると困るので心臓を突いておこうかと考え香川の臍の上当りを股ぎチヨツキや襦袢を上にまくり上げて胸部を出し庖丁を刃を下向けに右手に持ちあばらの骨に当ると通らんので刃の部分を自分から向つて斜め左下方を向けて左胸部の心臓と思われるところを大体五寸位突きさしましたが血が出ないので庖丁を二、三寸抜き(全部抜かぬ)更に同じ深さ程度突き込み一寸の間香川の様子を見ましたが香川は全然動かんのでもう大丈夫香川は死んだと思つて庖丁を引き抜いたのであります。………

と供述している。本確定判決も、主としてこれによつたのであろう、「被告人(請求人)は………右手にしていた刺身庖丁で熟睡中の香川重雄の咽喉をめがけて突き刺したが被告人はその頭髪を前に垂らして自分の顔を隠くしていたため手許が狂い庖丁は右香川重雄の口のあたりに刺し込まれ、香川重雄が『うわつ』と声をあげてその庖丁を右手で握つたのでこれを手許に引き香川重雄が直ちに上半身を起こし敷布団の上にすわつて声をあげた時には矢継ぎ早に同人の顔面部等を右庖丁で突き更らに同人が逃げようとするところを頭部をめがけて切り下げついで同人の腰や顔面部等を突く等し同人が間も無く仰向きに倒れるや………香川重雄が生き返らぬようにとその心臓部と思われるところに右庖丁を突き刺し血が出なかつたので庖丁を全部抜かずに刃先を変えて更らに突き刺してとどめを刺し………。」と認定している。

ところで、司法警察員作成の昭和二五年三月一日付検証調書(確定一審記録七六丁以下)によると、被害者香川重雄方の被害の模様は、

被害者は就寝中のところを矢庭に鋭利な短刀様のものにて傷つけられたものと認められ寝具下布団南側には背中のあたる附近まで血痕が多量に附着し同人の枕にも位置は変ることなく右側上部に血痕を認められ、次に就寝中の頭部にあたる襖及左側襖にも飛沫状血痕が附着してゐて、又被害者の枕の横には赤色花模様入中古座布団一枚を二つ折りにし枕の代用にしてゐた様になつておりその位置は稍斜に変つてゐて之にも飛沫状血痕が多量に附着してゐた

次に上布団は蹴(跳の誤記と思われる。)ね起きた格構になつており二枚の中下側の人絹布団並びに国防色毛布には同じく多量の血痕が附着してゐる

更に、枕許の雛鶏用どうまる籠にも血痕附着し又板の間に至る出口附近の敷紙及襖には多量の血痕が附着してゐる

同場所より西側に向ひ連続して敷紙上に一面擦過状の血痕附着し次は北側障子戸に被害者がすがりついて歩いたものか横這ひに血痕が附着し西側障子は少し開けて木戸並びに柱に触れた様な血痕が認められる

被害者は此の場所に南西に頭部を向け仰向けに倒れており右足は前記柱に踵をつけ畳の縁に副ひ真直ぐ延ばし左足は角度四十五度位に開ひて同じく真直ぐ延ばしており右手は曲げて虚空を掴み顎のところに、左手は同じく曲げて肘を畳につけ拳は上方にして虚空を掴んでゐるその両手とも創傷を負ひ鮮血にまみれてゐる

頭部顔面には二月二十一日附の朝日新聞を押し当ててあるが創切刺傷は頭頂部口部右耳部などに多数認められその出血稍左に顔を振つておる為左肩左胸部下方の畳上に多量に流出し約二尺平方は血の海となつてゐる、尚その血糊の中に被害者の入歯が転げ落ちてゐた。

と記述され、しかも生々しい血痕付着・流出の現場写真が数葉提出されている(昭和二五年三月一日撮影香川重雄強盗殺人現場写真〔18〕乃至〔32〕等、確定一審記録一〇三丁以下)。

また、鑑定人上野博作成の鑑定書(確定一審記録一四四丁以下)によると、被害者香川重雄の屍体には次に記載するような極めて多数の刺切創・割切創・切創等があつたのである。

(一)  頭頂部の略々中央に長さ約五・五糎、線状で創縁整鋭、創角尖鋭、創面平滑の切割創があり、創底には骨質を触れ、後創角部創底の骨質は僅に傷けられ、鱗屑状の骨小片を遊離する(剖検記録第二及第十九項)。

(二)  頭頂部で前創(創傷(一))に略々平行し、長さ約五・〇糎、線状の切割創があり、その創縁、創角及創面等は略々前創と同様である(剖検記録第二項)。

(三)  右耳穀附着部上端の前上方に米粒大乃至二倍米粒大、汚褐色の表皮剥脱が四個あつて、皮下組織間に出血がある(剖検記録第二項)。

(四)  右耳殻附着部上端の前方で前創(創傷(三))の下方に、二倍乃至三倍米粒大の刺切創が四個あつて、創縁は略々整鋭、創面は略々平滑である(剖検記録第二項)。

(五)  右眉毛外端の上方に豌豆大、淡汚褐色の表皮剥脱があり、皮下組織間に出血はない(剖検記録第三項)。

(六)  右眼外眦の後下方に長さ約二・三糎、線状の創傷があり、その皮下組織間には凝血を存在する(剖検記録第三項)。

(七)  右耳前部即ち右耳殻附着部の前方に二個の創傷があり、一つは略々線状で長さ約一・〇糎、深さ約一・〇糎、他の一は略々米粒大、不正三角形をなし、創底に骨質を触れる(剖検記録第三項)。

(八)  右口角部の後方約一・八糎の部に、不規則な三角形を呈する刺切創があり、その後方の一辺の略々中央から後上方に向ひ約五・〇糎ほどの表皮を剥脱して居る。本創の創縁は稍々不規則で創縁は平滑を欠き、創底は口腔に通じて居る(剖検記録第三項)。

(九)  右口角部から右後方に向ひ長さ約二・〇糎、略々鍵形に該部を離断する刺切創があり、創口は侈開し、両創縁は不規則、創面は少しく平滑を欠き、口腔に通ずる(剖検記録第三項)。

(十)  前創(九)の下方に不整形拇指頭大、淡汚赤色の表皮剥脱があり、皮下組織間に出血がある(剖検記録第三項)。

(十一)  左口角部の下方約一・五糎の部に、長さ約一・三糎の細い創傷があつて、創縁略々整鋭、上創角尖鋭で創口は口腔に通ずる(剖検記録第三項)。尚、口腔内には舌根部背面の略々中央に長さ約一・五糎、深さ約三・五糎の刺切創を、咽頭後壁で会厭軟骨附近には粘膜剥離を、更に食道の上端で左側壁に長さ約一・二糎の刺切創を(剖検記録第十三項)夫々存在し、之等は創傷(九)、(十)及(十二)と同時に生じたものと考へられるが、前三者の何れが後三者の何れに由来するやは判定し難い。

(十二)  左乳嘴の右稍々上方で左第三肋間に長さ約二・〇糎、巾約〇・八糎の不整形の刺切創が左上方から右下方に少しく斜走し、上創縁は整鋭であるが下創縁の一部は不規則である(剖検記録第五項)。

本創は前胸壁を貫いて左胸腔内に達し、左肺を刺傷し、左上葉の前面に長さ約一・〇糎、巾約〇・三糎、深さ約五・〇糎及長さ約二・〇糎、巾〇・七糎、深さ約八・〇糎なる二個の刺切創を生じたものと認められる(剖検記録第十二項)。

(十三)  前創(十二)の直下方で略々之に平行し、長さ約四・〇糎、線状の皮創がある(剖検記録第五項)。

(十四)  創傷(十二)と左乳嘴との略々中間に示指頭大、類円形、乾固した表皮剥脱がある(剖検記録第五項)。

(十五)  右鼠蹊部の略々中央に豌豆大、淡暗褐色の表皮剥脱がある(剖検記録第五項)。

(十六)  右前腕伸展側に拇指頭大の変色斑があつて皮下組織間に微に出血がある(剖検記録第六項)。

(十七)  右拇指々腹面に長さ約四・〇糎、創縁不規則、創面稍々不整な切創があり、創底に骨質及腱等を暴露する(剖検記録第七項)。

(十八)  右示指の第一節と第二節との関節部に長さ約二・〇糎で創縁、創面等の性状は前創(十七)と略々同様な切創があつて該関節部は殆ど離断せられんとして居る(剖検記録第七項)。

(十九)  右環指第二節小指側に長さ約一・〇糎、深さ骨質に達する切創がある(剖検記録第七項)。

(二十)  右小指第一節に米粒大、弁状の表皮剥脱があり、皮下組織間に出血がある(剖検記録第七項)。

(二十一)  右手掌部で右小指第一節に近く、豌豆大の表皮剥脱があり、皮下組織間に少許の出血がある(剖検記録第七項)。

(二十二)  右大腿外側の略々中央に長さ約三・〇糎、巾約一・〇糎、創口の侈開する刺切創があり、皮下組織間に出血がある(剖検記録第七項)。

(二十三)  右大腿前面の略々中央部に長さ約二・〇糎の刺切創があり、創縁、創面等の性状は前創(二十二)と略々同様である(剖検記録第七項)。

(二十四)  右膝蓋骨の左下方に長さ約一・〇糎の皮創が二個相接して存在し、皮下組織間に微に出血がある(剖検記録第七項)。

(二十五)  左手腕関節部小指側には長さ約一・八糎の表皮剥脱を、更にその下方には一小皮創を夫々存在し、何れも周囲の皮下組織間に微に出血がある。又、その附近に長さ約三-五糎、線状の表皮剥脱があり、其の皮下組織間に出血はない(剖検記録第七項)。

(二十六)  左拇指第一節には長さ約三-五糎、創口侈開してその巾約二・三糎、創縁稍々不規則、創面平滑の切創があり、創底に凝血がある(剖検記録第七項)。

(二十七)  左中指、左環指及左小指の指腹には夫々長さ約一・〇糎内外の浅い切創が略々一連して存在し、何れも皮下組織間に出血がある(剖検記録第七項)。

(二十八)  左大腿外側で上端に近く、不整形米粒大、の表皮剥脱数個があり、皮下組織間に出血がない(剖検記録第七項)。

(二十九)  臍窩の下方約一五・〇糎の部に長さ約二・〇糎、横置の刺切創があり、創縁略々整鋭、創面平滑、周囲の皮下組織間に微に出血がある(剖検記録第八項)。

これら証拠よりみて、被害者に兇器(確定判決は刺身庖丁といい、請求人の第四回検面調書では刃渡七、八寸という。)で至近距離からこのような創傷を与え、その血液を現場に前記のように付着流出せしめえた犯人は、その自らの着衣に相当の被害者の血液を浴び付着させるに至つたことは、蓋し当然推認すべきところである。被害者からの返り血もあろう。兇器についた血が兇器を振るうことによつて着衣に飛び散ることもあろう。被害者から流出する血がそのまま犯人の着衣につくことがなかつたとまで言いきれまい。被害者から出て被害者の着衣や畳や襖に付着した血を更に犯人の着衣が擦過することもないことはなかろう。血の付着した犯人自身の手や刃物が自己の着衣に接し血の付着することもありえよう。その犯人の着衣への付着の仕方もベツトリと付くこともあれば飛沫状に付くこともあり、あるいは擦過状に付くこともありえよう。大小、形状また様々であろう。検察官も別の所で(当審船尾証言・速記録一一〇丁)証人に対する問に際して、血液がいろいろな物件に付く場合、人を刺してすぐ飛沫血痕状にすつととびつく場合もあるし、いろいろなケースがある、と述べている。これらの可能性をすべて否定できるものは何もない。しかも請求人の捜査段階での供述では、被害者は寝ているところを刺され、蒲団上に上体を起し更に兇行から逃れようとして這いまたはいざり廻り、請求人はこれを追い、あるいは逃げ口を塞ごうと前面に立ちはだかるようにしたりしたという。前記検証調書の検証結果もこれを窺わしめるものがある。これに拠るならば、互に動き合つている両者の姿勢・行動関係において、請求人の捜査段階での供述による請求人の犯時の着衣への被害者の血液付着は単純なものでなく、色々な部位への色々な形での付着を考えねばなるまい。もとより今となつてはこれを確認しうべくもない。しかし、如上証拠に経験則を適用すれば、当然推認できるところであつて、これをもつて証拠に基づかない単なる臆測であるとすることはできないと考える。検察官も、他の論点についてではあるが、即時抗告理由補充書において「………被害者はかなり多量の出血をきたす多数の創傷を受け、現実に多量の血液が四畳の間の布団・畳等に付着・飛沫・貯溜していたが………。」と記し(同一八頁)ているが、このことは、被害者の至近距離にいた犯人の着衣に前記のような血液付着を結果せしめずにはおかないものと考える。請求人は、着衣の血痕付着部位につき、捜査段階で前記第四の三の3の(ロ)のとおり供述している。しかし、請求人がこれを認識したというのは月が出たとはいえ夜闇の川畔や日の出頃の早暁においてである。一方は請求人のいうとおり夜目であり(確定一審記録一一〇五丁)、他方は人目を忍んで(確定一審記録一二二四丁)である。たとえ犯跡を消そうとする気持が働いていた時であつても、到底、科学者や捜査官が事後的に精査する比ではない。また、その気持の余裕のある状況の時でもない。請求人の第七回員面調書添付の図面(二枚目)に「左袖わおぼえぬ」と記しているのも、請求人の述べている点検・認識の程度を示すものといわなければならない。請求人の捜査段階での着衣の血痕付着箇所に関する前記供述が自己の記憶に忠実なものであつたとしても、自己の着衣への血液付着状況につき認識し供述しえているところにはどうしても限界があり、これをもつて覆いつくせるものでないとせざるをえない。現に捜査官自身国防色ズボンについて遠藤鑑定によつて発見しえた血痕を、視認によつて発見していないのである(遠藤鑑定によれば、本件国防色ズボンが同鑑定人の手許に送致されたときには被検汚斑が赤色の稍太い線で円く囲まれその部分が明示されていたが、これらの汚斑はいずれも血液検査(ルミノール発光反応)が陰性であるに反し、更に微細な暗褐色ないし、黒褐色の小斑点がありこれが本件血痕だということになるのである。右の赤い印は捜査官において印し鑑定人の留意を促したものと思われる。検察官もそのように解している。右遠藤鑑定からもわかるように本件六個の斑痕は捜査官においてさえ発見しえなかつたものである。検察官の即時抗告理由補充書七三頁六行目以下参照)。請求人が捜査段階で前記のように供述するところを超えて、また、請求人自身が認識したところ以上に(特に微細な血は然り)、犯人の着衣にはもつと色々の箇所に色々の態様で被害者の血液が付着していたと推認するのは、理の当然としなければならない。

5 請求人が捜査段階の第四回検面調書で本件事犯時の着衣であると供述する国防色上衣や国防色ズボンの科学検査の結果、僅に国防色ズボンの方から血痕予備試験に対し陽性に反応する微小の斑点が発見されたのみであること、第四の三の1記載のとおりである。検察官はこれを、請求人が洗濯したため、付着した血痕が消え微量の血痕のみが認められたのである、と主張し、本確定判決に当つて判決をした裁判所もそのように解したに違いない。果してそれが適正な見方であるか、更に順次検討することとする。なお、古畑第二鑑定の血痕予備試験で反応陽性を示した斑痕は、その付着時期に疑義のあること前記のとおりであるから、本考察の対象にならない。

(一)  国防色上衣について

検察官は当審にいたつて、国防色上衣についても遠藤鑑定人がルミノール試験を行つていると主張し、新たに香川県警察本部刑事部鑑識課田岡正雄作成の報告書や村尾順一の検察官に対する昭和五四年一一月七日付供述調書を提出してきた。しかし、右当審の立証も、国防色上衣について真実ルミノール試験が行われたとの事実を端的に示すものではない。仮に、これが行われたものとすれば、鑑定書の作成提出のないところから、検察官も言うとおりルミノール反応陰性であつたのであろう。先ず、この仮定の上に立つて考えてみよう。

ここで注意すべきことは、前述の各鑑定人らの洗濯の実験と請求人のいう国防色上衣等の洗濯は基本的に異なつているということである。それは上記鑑定人の実験においてはいずれも布を洗濯し易いような限られた面積にし、わざわざ血痕を付着させ、血痕の存在場所を認識し、洗濯によつて血痕予備試験の反応が如何なるかという目的意識のもとに、単純な布一枚(但し、船尾鑑定の半ズボンは例外、それも洗濯によるルミノール試験への影響はない結果になつている。)の、いわば限られた部分を洗濯しているということである。一方請求人の供述するところは、血痕を他人に気づかれないようにしようとの意図であるとはいえ、右実験材料とは比較にもならない国防色上衣(それも前述のようにかなり固い材質である。)という広面積複雑な形をしており、血痕付着箇所を精査点検したり、しかと確認しないままに丸浸けにし手もみで洗つているということである。この請求人が洗濯した意図について直接触れた供述はない。しかし、請求人の第四回検面調書によると、請求人は庖丁を持つておるのを人に見つかるとあやしまれると考えたからと言い、また、世間の人に対しては犯行当日は私が真面目に働いていたという事を見せるために山へ炭焼きに行つたと述べていることからみて、また、この段階では通常逮捕を免れることが第一であると考えていることよりみて、先ず血痕を他人に気づかれないようにという意図であり、裁判になつた時、科学検査に堪ええるように(請求人にどの程度この点に関する科学知識があつたか疑問である。)とまで思い及ぶまいし、その余裕もなかつたものと考えねばなるまい。即ち、血の色彩が消え人目につかないように、との程度の考えでいたとみるのが自然である。これに反する証拠はない。請求人の供述によつても、血痕の目についた所のみを意識し、仔細な点検をした形跡がない。やはり前記洗濯実験の場合とはかなり基本的に異なるものがある。ところで、請求人の供述する洗濯は、前記のように人目を忍んで早々の間になされており洗濯の程度には自ら限度がある、ということである。そして、前記科学の実験として意図的になされた洗濯においてすら前記のように石けん等を用いて余程入念に相当時間、あるいは余程注意して、洗濯しないと、一旦付着した血痕はルミノール試験に反応が陰性化しないのである。前記請求人の洗濯の目的・程度、犯人の着衣に付着していたであろう血痕の状況とを対比検討すると、本件犯行によつて着衣に付着した血痕が、請求人のいうような洗濯によつてすべて消えて、ルミノール反応がすべて陰性化するであろうか。逆に言えば、請求人はそのような洗濯をなし、あるいはなしえたであろうか。そもそも疑問とせざるをえない。三上鑑定が科学実験としての洗濯後の血痕予備試験結果よりみて、一応、「……国防色上衣、国防色ズボンに人血液付着後間もなく水洗一回、その後四時間してから石けんを使用して洗濯したものとすれば、上記実験結果(ルミノール試験も、直接法のベンチチン試験も、ともに陽性)のごとくなるものとは思料されるが、……。」としているところは、更に限定を付しているが、本件での洗濯の効果そのものを考えるに当つて参考になる。

検察官は抗告理由で、請求人は国防色上衣は丸づけにし石けんで特に血のついていた胸と裾、右袖等を特別入念に洗つたというのであるから、船尾証人が本件で洗濯実験をした五秒間ずつ二度もみ洗いした程度でなく、その方法、程度は請求人の自白する洗濯の方法、程度に符合せず、むしろ、三上証人のいう石けんをつけてまた、石けんをつけてもみ洗いをしたという方法、程度の方が本件に近いもので、これだと状況により血痕予備試験が陰性になることも否めない、と主張する。

そこで先づ、請求人の供述する「上衣は特に血のついていた箇所を特別入念に洗濯した。」という趣意を検討してみよう。たしかに、請求人の第四回検面調書によると、一応請求人は国防色上衣の血液付着箇所を特別念入りに洗濯したかの如くである。しかして、国防色ズボンからは前記のとおり人血痕が検出されているのに、上衣からはこれが検出されていないことからして、上衣を特別念入りに洗つたとする供述は注目を要するところである。しかしながら、右趣旨の供述は右検面調書にあるだけであつて前記他の供述調書では自宅における二月二八日朝の洗濯において上衣とズボンで特に差のあつた供述をしている形跡は見当らず、かえつて第一回員面調書では前記のとおり朝上衣を洗濯したことには触れていないくらいである。また、請求人は前記第七回員面調書において、前記のとおり服に血のついている状況はとの問に対し、進駐軍放出のS字入り上服には前では右胸のあたりに点々と二、三ケ所、及一番下の方に「ベツトリ」と直径二寸位の大きさについておりました。袖は右袖の内側の先の方に点々と血の飛沫が五ケ所位ついておりました。黒木綿下服は一番下の裾の付近に(右股の)点々と三ケ所位ついておりました、と供述して図面を書いている。そして以上いずれの供述においてもズボンにも血痕の付着していたことを認識していたことになつているから、他人に血痕を見つからなくするための洗濯だというのに、上衣だけを特別念入りに洗濯しズボンの洗濯には手を抜くことは、通常は考えられないところである。したがつて、第四回検面調書における供述から、上衣のみを特別念入りに洗つたとするのは唐突不自然である。二月二八日朝における自宅での上衣とズボンの洗濯の程度には、上衣は丸浸けにし、ズボンは認識しえた血痕付着部位をつまみ洗いしたとの差はあるにしても、いずれも血痕を人目につかないようにしようとの目的は同一であるから、上衣にしろ、ズボンにしろ、認識しえた血痕付着部位に対する洗濯の程度そのものについては、強調できる程の差をつける筈はなく、この供述をさして重視できないというべきである。請求人の第四回検面調書におけるこの供述も単に丸浸けにして洗つた上衣の洗濯は、中でも血痕を認識しえた所を格別念入りに洗つた趣旨だけと解すれば、これは血痕の色彩を分らないようにとの目的以上の洗濯をしたものを意味するものと解すべきではなく、ズボンの洗濯との間に差をつけた趣旨ではないと読みえないわけでもない。とすれば、ズボンの洗濯した部位に微量とはいえ視認できる斑痕が残つていたことをも参照し、前記のように石けん等を使つて余程入念に相当時間洗濯しないとルミノール試験の反応は陰性化しないという鑑定結果よりみて、上衣に付着した血痕を請求人の洗濯によつてルミノール反応を陰性化しうるまでに洗濯しえたとするには疑問がある、といわざるをえない。

次に、請求人の第四回検面調書で供述する字義どおり、上衣の特に血のついていた部位につき、特別念入りに洗つたものとして検討してみよう。たしかに所論のいうとおり、船尾鑑定の洗濯実験はあまりに簡であり、これだけで請求人の自白する上衣に関する洗濯をすべて律しようとするのでは検察官が不満の意を示すのも無理はあるまい。しかし、また検察官のいうとおり、請求人の本件洗濯はすべて三上鑑定のいうもみ洗いまたもみ洗いという方法で(三上鑑定書一七丁、三上証言・速記録九七丁)血痕予備試験を陰性化する程度のものである、とするのも如何なものであろうか。請求人の本件洗濯は国防色上衣を手もみで洗つたのである。あるいは中には検察官のいうような程度の洗濯を受けた部分もあつたと仮定しても、請求人が認識しなかつた付着血痕もあつた筈であり、これをも含めて、上衣の付着血痕すべてを、検察官の主張する程度に洗濯し終えたとみるのは、手もみの洗濯という方法よりみて、考え難いところである。

当審で検察官の主張する国防色上衣に関する遠藤鑑定によつてルミノール検査を受けたと仮定して、本件国防色上衣はその後古畑第一鑑定でベンチヂン試験(間接法)を受けている。船尾鑑定は、洗濯され更にルミノール試験を受けた後ベンチヂン試験(間接法)を受けると、ベンチヂン試験(間接法)の反応が陰性化するという。しかし、国防色ズボンについて遠藤鑑定により明らかにルミノール試験を受けているのに、その部位から古畑第一鑑定の結果ベンチヂン試験(間接法)反応陽性の斑点が発見された、という事実がある。それはそれとして、国防色上衣について当審で検察官の主張する遠藤鑑定でルミノール試験を受けたとしても、古畑第一鑑定で全くベンチヂン試験反応陽性の部分が発見されなかつたということは、少なくともベンチヂン試験(間接法)により血液付着の証明が得られなかつた、という意味はあるものと考える。

また、若し、遠藤鑑定において国防色上衣にルミノール試験が行われていないとしても、古畑第二鑑定でルミノール試験が行われ、反応はすべて陰性であつたのである。それに、ルミノール試験以上に鋭敏であるベンチヂン試験が古畑第一、第二鑑定において行われ、反応陰性であつたことは、ますます理解に苦しむところである。ベンチヂン反応は一〇万倍、二〇万倍のものにも反応するというのであるから(三上証言・速記録六丁、船尾原審第二回証言・速記録七~八丁)。もつとも、本件においてベンチヂン試験は間接法によつている。それにしても、古畑第一鑑定において多少なりとも血痕の附着が疑われる部分には余すところなく施行したというのに、また、ルミノール試験を経たわけでもないのに、ベンチヂン試験に対し陽性の反応を示すところが全くなかつたというのは、血液付着があつたとしたにしては、理解できないところである。

(二)  国防色ズボンについて

原決定は、古畑第一、第二鑑定を共に採証できないとみたからか、国防色ズボンについて直接判断することなく、国防色上衣の洗濯に関する請求人の自白は虚偽であるとの疑いがあるから、ひいて国防色ズボンについても犯行時に着用していたとの請求人の自白に疑問を持たざるをえないとした。ここでは端的に国防色ズボン自体についてルミノール反応と洗濯の関係を検討することとしよう。遠藤鑑定のルミノール試験の結果、右脚裾に微量の飛沫状血痕反応が発見されたに止まつたこと前記のとおりである。この発見された血痕だけでは微量に過ぎ、前記犯行現場の状況や被害者の受傷程度よりみて到底首肯できるものではない。検察官はこれは洗濯によるものだという。しかし、国防色上衣についてみたルミノール試験と洗濯の関係が同様にあてはまり、洗濯したにしても微量の血痕反応を除いてその余はすべてルミノール反応陰性であることは奇異の感を免れない。請求人は国防色ズボンはつまみ洗いしただけだという。また、遠藤鑑定のルミノール試験だけでなく古畑第一鑑定でベンチヂン試験(間接法)を、更に古畑第二鑑定でベンチヂン試験(間接法)及びルミノール試験を施されている。その結果は前記のとおりである。

先づ洗濯を施されなかつた部分について検討すると、これらの部分はルミノール反応、ベンチヂン反応、ともに陰性であつたことは、この部分に全く血液付着の形跡がなかつたことを意味するというべきである。ルミノール試験後のベンチヂン試験であつても、洗濯しなかつたという部分についてであるから、ルミノール試験後におけるベンチヂン試験に関する船尾証人のいう前記見解を適用する余地はない。前記検証調書等から推認される犯人の着衣に付着した筈の血痕状況、特に被害者が比較的低い姿勢の時受傷したこと等よりみて、本当にズボンのこの部分、即ち、右脚裾の部分を除く部分に全く血液が付着しなかつた等ということがありえるだろうか。理解に苦しむところである。

次に、洗濯したという部分について見てみよう。右脚裾に遠藤鑑定、古畑第一鑑定によつて、微量な血痕と判定されたものが発見されたこと、前記のとおりである。しかし、右痕跡はすべて飛沫血痕の外形をそのまま留め(検察官も即時抗告理由補充書でそのように評価する。同一六二~一六三頁)肉眼的に視認できる状態で残存していたのであり、他はすべて血痕予備検査陽性の反応がなかつたということになつている。洗濯後の残存血痕とルミノール反応に関し、前記のように幾つかの段階がある。しかるにそのうちの前記第四の三の2に記した、付着したままの外形を留めるもの(顕在血痕)があつたというだけで、他はすべて洗濯で反応を示さない状況になつてしまつた(血痕消失)ということになるのである。両者の中間段階である付着した外形が損われ(血痕よう斑痕)あるいは肉眼的に視認できず、それでもなお反応陽性を示す(潜在血痕)という段階のものが全くない。いわば、検察官の抗告理由での表現を借りるならば、飛沫血痕の外形でそのまま残るか、あるいは完全にルミノール試験に反応しない程度に消えてしまつたか、そのいずれかのみであつたのである。しかも、請求人の供述によれば、その洗濯は、つまみ洗いとはいえ、ズボンの右裾、脛から下という狭い面積の、限局された部分を洗濯したことになる。一点の洗濯は、その周辺に洗濯効果を及ぼさずにはおくまい。請求人の第四回検面調書によると、請求人が血痕があつたのでつまみ洗いをしたという部位そのものから、検察官の主張によれば正に最も洗濯の影響を受けていなければならないと考えられるそこの所から、完全な形で残存しているのが発見されたというのである。そして、その他には、全く反応を示さないというのである。若し真に洗濯によつてルミノール反応を陰性化しえる程に血痕をなくすことができたというならば、狭い右脚裾という洗濯面積よりみて、外形をそのまま残した血痕が発見されたというのがそもそも不思議であるし、そのままの外形で残るか全く消えるかだけであつて、中間段階のもの(血痕よう斑痕や潜在血痕)が全く見当らないというのは、なお更理解できないことである。古畑第二鑑定の被検血痕はその付着時期に前記のように明らかに疑問があり、採証できないこと、前記のとおりである。更に視点を変えてみよう。微量にもせよ、このような斑痕が飛沫血痕の外形をそのまま残して残存したということは、洗濯したにしてもその程度の洗濯であつたということである。その程度の洗濯で、発見された微量血痕以外は全く消し去ることができる、ということがありえるだろうか。したがつて、前記程度の微量な血痕反応が右裾のみから発見されその他血痕予備試験で全く反応を示さないというのは不自然なことである。やはり、この発見された微量血痕反応箇所以外にはそもそも最初から血液は付着していなかつたのではないかとの合理的疑いが生れてくるのである。また、国防色ズボンについての洗濯がこの程度であると見ることは、国防色上衣の洗濯程度の見方にも影響を及ぼし、国防色上衣についても同様の疑問が湧いてくるのである。

以上は、請求人の捜査段階での前記供述が、遠藤鑑定や古畑第一鑑定で発見された血痕反応部位のすべてを請求人の洗濯の対象にしたという趣旨の供述である、と解して検討してきた。一応そのように読める。しかし、この点疑問がないわけではない。というのは、請求人は第七回員面調書本文においては前後面を限定して供述していないが、添付図面において血痕付着箇所としてズボン前面に赤点を付しており、ズボン右脚後面の血痕は請求人の図示しないところだからである。検察官はこの図面によつたのであろう。抗告理由補充書において、請求人のいうズボンの裾の方の血痕付着箇所はズボン右脚前面をいうものとしている(即時抗告理由補充書六三頁・七三頁・七五頁)。しかし、そうなると、なお更、疑問は増大するだけである。何故ならば、遠藤鑑定・古畑第一鑑定において、発見された血痕は略同様な性状を示すとされており、請求人が意識して洗濯したというズボン前面と血痕付着の認識がなく、洗濯しなかつたという、ズボン後面での各残存斑痕の性状が同一であるということになり、そのこと自体でズボンについて洗濯の介在を考えることさえ困難である。

しかしながらなお暫らく洗濯はあつたものとして論を進めよう。検察官の主張するところはズボンに微量の血痕が認められ、上衣に血痕が認められなかつたのは後者は犯行直後に水洗いしたのに前者はこれをしなかつたためであろうとする。しかしながら、請求人の自白によれば前記のとおり上衣を二月二八日朝見たとき血痕が残つていたというのであるから、水洗が先行した点はさほど有意の差をもたらすものとは考えられない。

6 以上、請求人の捜査段階での自白を前提とし、これに本件旧証拠である国防色上衣、同ズボン等や新たな証拠である洗濯に関する船尾鑑定、古畑・池本回答書、さらに平島論文等を対比検討してきたが、その結果、国防色上衣にせよ、国防色ズボンにせよ、請求人の自供するような、本件事犯時に着用され本件犯行により付着した多量の血痕を、洗濯により、国防色ズボンで発見されO型の人血と判定された斑痕以外、すべて消去し血痕予備試験を陰性化しえた、とするには幾重にも疑問があり、これらの疑問を総合すると、国防色ズボンから発見された微量の血痕反応箇所以外には、そもそも当初から血液が付着していなかつたのではないか、となると、右付着していたのは、本件事犯時の香川重雄の血液ではなく、別の人の血液ではないか、したがつて、遡つて、この点に関する請求人の自白は虚偽ではないか、という合理的疑いが出てきたのである。船尾鑑定中の洗濯実験における洗濯の程度が、請求人の供述する洗濯より低いものであつたとしても、以上のとおり、洗濯に関する船尾鑑定に、同三上鑑定、古畑・池本回答書、更に平島侃一の前記論文写を加味し、これを本件旧証拠と総合し検討すれば、本件事犯時に国防色上衣及び国防色ズボンを着用、これに被害者香川重雄の血痕が付着したので犯行後間もなく国防色上衣を水洗いし、更に四時間後に国防色上衣及び国防色ズボンを石けんを使つて洗濯した旨の請求人の自白は虚偽であるとの合理的疑いを生じ、同様洗濯に関する船尾鑑定に、同三上鑑定、古畑・池本回答書を総合し(これが新たな証拠であることは争いがない。以下、本件新証拠という。)、国防色上衣の犯時着用・血痕付着・洗濯に関する請求人の自白を虚偽であるとし、ひいては国防色ズボンについても犯行時着用していたとの自白に疑いを持たざるをえないとする原決定の判断は、当裁判所と必ずしも理由を同じくしないが、結論において正当である、と考える。この点に関する検察官の所論は採用できない。それとともに、国防色ズボン及び国防色上衣は請求人の本件事犯に対する証拠としての関連性を失い、遠藤鑑定第五項、古畑第一鑑定も同様、本件事犯に対する関連性を失い、いずれも本件事犯に対する証拠にはならなくなつたのである。

なお、右の点は、国防色ズボン等と本件事犯との関連性がないことを明らかにしたというだけで、本件六個の斑痕が、同一由来でないことを明らかにしたというようなものではないから、前記のような古畑第一鑑定の証明力を補強し高めることにはならなかつたが、これによつて古畑第一鑑定の信憑力が損われるに至つたというものではない。

また、検察官は、抗告理由においては、船尾証人の鑑定態度及び鑑定結果には一般に信用性に欠ける面が多く信用性を認め難いと主張するが、昭和五五年一〇月一五日付意見書では、「事柄によつては同証人の証言するところは、原審における証言に比し正確となり、真実を理解するのに役立つこととなつた証言部分もある。」(同意見書三一頁)ともしており、洗濯に関する船尾鑑定を前記趣旨において採証することを、船尾証人の鑑定なるが故に否定すべきであるとまで、主張しているとも思われないし、また、その事由があるとも考えられない。

四 血痕付着原因について

1 以上に検討したとおり、国防色ズボンは本件事犯と関連性のないことが明らかになつたけれども、古畑第一鑑定の証明力は損われていないから、国防色ズボンにあつた本件六個の斑痕は、なお、O型の人血の付着したものと推量されることに変りない。しかるに、請求人の血液型はA型である。O型の人血は明らかに請求人にとつて他人の血液である。これが本件事犯時に付着したものでないとすると、一体何時どのようにして付着したかは、当然出てくる疑問である。この問題につき検討したところを、ここに記しておくこととする。

2 ここで想起さるべきは、いわゆる神田村農協強盗傷人事件である。請求人は、本件の起きた後である昭和二五年四月一日、他一名の共犯者と神田村農業協同組合において金品を強取しようと企て、それぞれ刺身庖丁一丁を携え同組合事務所において金品物色中、宿直員近藤肇に発見され、請求人は所携の刺身庖丁で右近藤の腹部を一回突き刺しその左季肋部に治療約二週間を要する刺創を被らしめたとして、強盗傷人有罪の認定を受けている。この時の被害者近藤肇の血液形はO型である。そして、この時請求人が着用していたズボンが本件証二〇号の国防色ズボンなのである。このことは、請求人が同事件に関する昭和二五年四月一二日付員面調書謄本(丁数が打つてないが確定記録に編綴され、当裁判所が事実取調したものである。)において認め、同事件の公判廷でも証拠とすることに異議なかつたところである。請求人はこの国防色ズボンは捜査官がすり代えたものだとも主張するが、その認められないこと最高裁決定の説述するとおりである。検察官も、右強盗傷人事件に際し請求人が着用していたズボンと証二〇号国防色ズボンの同一性を、強く主張している。とするならば、本件において、犯時請求人が右国防色ズボンを着用していたか否か、同ズボンから発見された本件斑痕が被害者香川重雄の血液によるものであるか否かを考えるに当つて、右神田村農協強盗傷人事件で請求人が着用しており、その時の被害者近藤肇の血液型がO型であつたこととの関係を検討せざるをえない。

再一審記録によれば、昭和三八年最高検察庁は本件強盗殺人事件の執行事務処理のため高松高等検察庁に対し、〈1〉右強盗傷人事件被害者近藤肇の血液型がO型であることは間違いないか、〈2〉同事件犯行の際、請求人着用のズボンに右近藤の血液が付着した可能性はあるか、を照会し、これを受けて高松高等検察庁は高松地方検察庁丸亀支部及び香川県警察本部に照会調査させた結果、いずれによつても近藤肇の血液型はO型であることが確認されたが、右国防色ズボンに対する近藤の血液付着の可能性の有無については、高松地方検察庁丸亀支部長は、可能性は極めて薄いという見解であり、香川県警察本部長はその可能性は認められない、というものであつたと認められる(再一審記録四六四丁以下)。ところで、右再一審記録に編綴されている近藤肇の検察事務官に対する昭和三八年五月八日付供述調書謄本や、前記請求人の強盗傷人被疑事件に関する昭和二五年四月一二日付員面調書謄本によつてみると、請求人は、右神田村農協組合事務所において二本あつた刺身庖丁のうち長い方を持ち、物色中、ガタンという物音に不審を抱いた近藤が宿直室から事務室の方へ出てきているや、発見されたと思い、接近し右手に持つた右刺身庖丁の刃を下にして近藤の足(股)目掛けて力強く一突きしたが、近藤が体を変えたため手応えなく、更に一突きしたところ、近藤の季肋部に当つて手応えがあり、近藤が騒ぐので突嗟に逃走したが、近藤はこのため左季肋部に傷害を負い、近藤の供述するところによるとその後宿直室で見たら左腹に傷口があり、少し血が出ていたが、厚い毛製の外套の上から刺されていたので傷が浅かつたものか、気付いた時も血が流れる程ではなく、また、請求人のズボンが近藤の体や傷口にふれることはなく、厚い外套の上からであり出血も少なかつたので同人の傷口の血が請求人の服装に付着するようなことはないと思う、というのである。

これでみると、

〈1〉 請求人は右手に庖丁を持つて近藤を刺し、一方国防色ズボンの血液付着部位もすべて右脚であること、

〈2〉 刺身庖丁は長さは不明であるが、とにかく二本ある中の長い方を使用し、一方血液付着部位も裾の方であること、

〈3〉 近藤の出血も少なかつたと思われるが、一方、ズボンの付着血液も微量であつたこと、

〈4〉 検察官の表現を借りると、ズボンの血痕は左斜上から右斜下にかけて約七センチメートル幅の一線上に並んでおり、いずれも表面から付着した飛沫血痕様の性状を呈し、その位置性状よりみて、検察官も同一の機会に同一人の血液が付着したものと主張している程であること、

〈5〉 付着部位は確にズボンの前面と後面の両方に別れているが、請求人も静止していたわけでなく、そこに動きがあり、例えば近藤を一突きした後直ちに請求人が逃走する動きもあつたこと、これらの状況よりみると、O型である近藤の血液が国防色ズボンに付着した可能性が相当に強い、例えば、近藤を刺した兇器に付着した近藤の血液が、兇器を引き抜くときに国防色ズボンに飛散した可能性も否定できないではないか、との疑念が浮ぶのである。国防色ズボンに付着していてO型の人血と判定されたものが微量であるだけに、この疑いが拭い難いものとなつているのである。もつとも、前記のように、昭和三八年最高検察庁の照会により高松高等検察庁が調査した時には、近藤の血液が犯人のズボンに付着する可能性は極めて薄いとか、その可能性は認められない、ということになつている。記録上窺われる当時の調査内容を見ると、犯人の着衣が近藤の体や傷口に触れたか、あるいは近藤の返り血自体が付着するようなことはなかつたか、という観点で調査していたものと認められる。前記近藤肇の検察事務官に対する供述調書謄本における供述自体、これにそつたものとなつている。刺すことによつて庖丁に付着した近藤の血液が、庖丁を抜き取る際等に犯人の着衣に飛散しなかつたか否か、という点を配慮して調査検討した形跡は窺われない。近藤の出血は少なかつたようである。しかし、とにかく出血はしているのである。昭和三八年調査当時、前記のように、検察側に、極めて薄いとはしながらも付着する可能性を全く否定し切つていない見解があつたことも見落せない。

以上のように、当審に至るまでに提出された関係証拠によつても庖丁に血がつかなかつたとも思えず、刺した庖丁を抜き取る際にこれが着衣に挾まれて付着した血液が完全に拭き取られたものともいい切れないから、庖丁にはなにがしかの血液が残り、これが庖丁を抜き取る際や、逃走の際に請求人のズボンに付着したものではないかとの疑いが浮び、この点に関し、これまで検討された形跡がないので、これを検討し、なお、近藤の血液が国防色ズボンに付着したとの合理的とまでいえる疑いがあるならば、検察官も右強盗傷人事件に際し着用されたのが証二〇号の国防色ズボンであると主張しているのであるから、むしろ、端的に、再一審に提出された近藤の血液型がO型であるとの証拠こそ再審開始の問題となる証拠ではないか、と考えた。

3 右に鑑み、当裁判所は更に解明する端緒にもと思い、検察官を通じ、右近藤の負傷に関する医師のカルテ、及び、昭和三八年当時香川県警察本部長の高松高等検察庁次席検事宛の回答書中に引用する近藤肇の昭和二五年八月一六日丸亀簡易裁判所において実施されたという証人尋問調書、の存否を調査した。しかし、これは現存しないということであつた。その際検察官は、進んで、昭和五五年九月八日付近藤肇の検察官に対する供述調書、昭和五五年九月一〇日付岩崎悌介の検察官に対する供述調書、同日付安藤昭美の検察官に対する供述調書及び昭和五五年九月一一日付検察事務官渡部実作成の写真撮影報告書を提出してきた。これらによると、検察官も今回は、刃物に付着した近藤の血が請求人の着衣に付着する可能性の有無、という点を十分念頭におきながら調査していることが分る。これらによると、一見右可能性が否定されているように見えるが、仔細に検討すると、なお、その可能性を否定し切れているとは思われない。即ち

(一) 右強盗傷人被告事件の判決で、近藤の受傷は治療約二週間を要する左季肋部刺創、と認定されているところ、

(イ) 近藤肇の検察官に対する昭和五五年九月八日付供述調書によると

〈1〉 傷口が三センチ位あり、二針か三針縫合し

〈2〉 ともかく妻を付添いにして一二日間入院し

〈3〉 当時診察していた医師が、たいしたことはない、と言いながらも、腹膜には達していない、と表現していたというところよりみて、医師も単に表面の皮下脂肪層だけでなく筋肉層まで切断していることは認めていたのではないか、と思われ

〈4〉 近藤が同調書で「当夜宿直室で見たとき、傷口は閉じており、その傷口のところに少し血がにじんでついている状態でしたが、出血は止つていました。傷口についている血液はわずかでした。メリヤスシヤツの切り口周辺に直径約三センチくらいの範囲で少ない血液がこすりついていたが、周囲にしみ込んだというようなものではなかつた。」と述べており、同人の検察事務官に対する昭和三八年五月八日付供述調書謄本における「当夜宿直室で見たところ左腹に傷口があり少し血が出ていた、傷が浅かつたものか気付いた時も血が流れる程ではなかつた。」との供述と完全に合致するか否か疑問もあるが、一時的に出血したことは、間違いないこと

(ロ) 岩崎悌介の検察官に対する供述調書によると

〈5〉 医師岩崎悌介が季肋部の腹壁だけについた傷であれば、出血はあつても一時的で、圧迫する程度で止まりますと述べ、反面解釈として、一時的出血のあつたことを肯定しているとみられること

(ハ) 昭和五五年九月一一日付検察事務官渡部実作成の写真撮影報告書添付の写真より窺われる

〈6〉 近藤肇の傷跡

これらの事実よりみて、傷が皮下脂肪層のみにとどまつたと断言できず、少量であり、一時的であつたにもせよ、出血があつたことも打消せず、国防色ズボンから発見された程度の血液を刃物なりを通じて飛散させる位の出血があつたことを、いまだ否定し切れているとは思われないこと

(二) 医師岩崎悌介は、「季肋部を鋭利な刃物で刺してその刃物をすぐ引き抜いた場合、毛細管程度の血管(があるだけ)であり、しかもすぐに抜き取るのですから刃に血の付く量は少く、その刃物を振り回しても刃物についている血が飛び散るようなことは到底ない。」旨供述しているが、同人は同調書中のその前の部分で「季肋部の皮下脂肪層には毛細管程度があるだけで、また、筋肉層にも大きな血管はありません。」と述べ、毛細管というのは皮下脂肪層に関して述べているところ、筋肉層を切断しなかつたとはいえないこと前記のとおりであり、刃物に血がつく以上、刃物の形状、振り方、力を加えた程度等諸種の条件の組み合せ如何により、国防色ズボンに付着していた程度の血が飛散することが全くない、と言えるか、いまだ疑問に思われること

(三) 近藤を刺すに当つて、近藤のメリヤスシヤツ及び厚い毛製の外套の上から刺したものであつても、請求人にも近藤にも動きがあり、抜き取る角度如何によつては必ずしも着衣に挾まれて兇器に付着した血液が完全に拭い取られるとは言い切れず、また、外套の切り口がメリヤスシヤツの切り口より少し上であつても、近藤の姿勢・動き如何によつては、必ずしも近藤が検察官に対する前記供述調書で述べているような犯人は上側から下方に向けて突き刺そうとしたものと決めつけられないこと

以上は検察官から提出された証拠のみによつて検討したところであるが、これらを総合すれば、当審において検察官より提出された前記証拠によつても、神田村農協強盗傷人事件の際、被害者近藤の血液が本件国防色ズボンに付着した可能性は、なお、否定し切れていないといわざるをえない。もち論、この時付着したものであると確認できているものではない。また、この時でなく、もつと別の機会(本件事犯時を除く。)であつたかも知れない。この程度の調べで近藤の血液が付着した合理的疑いがあると言い切るのも危険であろう。しかし、これ以上月日をかけて事実取調をしてこの点を究明するのは、再審を開始するか否かを決すべき再審請求受理裁判所の、しかもその抗告審である当裁判所の任務とするところでないので、明快な解明ではないがこの程度に止めることにした。単に本件事犯時以外において、他人の血液の付着する可能性が否定しきれていないのではないかと思われる一例示とする。

五 明白性について

1 最高裁決定が要約するとおり、本確定判決は、有罪事実認定の証拠として、申立人(請求人)の第四回検面調書のほか、被害者の血液型であるO型と同型の血痕の付着した国防色ズボン(証二〇号)を含め合計二六点の証拠物、鑑定書、検証調書、被害者の妻、捜査官の各証言等を挙示しているところ、最高裁決定は、本件有罪判決の証拠としては第四回検面調書に録取されている請求人の捜査段階における自白と証拠物として国防色ズボンの存在が重い比重を占めるといい、原決定も古畑第一鑑定をも掲げた上、これらを本確定判決の有罪認定を支える証拠中いわば決め手となるべき重要なものとしており、右確定判決をした裁判所も同様な心証であつたと解される。しかるに、これまで検討してきたとおり、本件新証拠によつて、国防色ズボンに付着していた血痕は本件事犯に際し付着したものではないとの合理的疑いが生じ、国防色ズボン、及びこれに関する古畑第一鑑定・遠藤鑑定第五項更には国防色上衣は、本件に対する証拠とはならなくなつたのである。即ち、本確定判決を支えていた重要な証拠の一角が崩れたことは疑いない。しかし、これをもつて直ちに再審を開始すべきであるとするのも早計である。

ここで一言触れねばならぬことがある。それは原決定は、最高裁決定の、(本)確定判決の挙示する証拠だけでは請求人を本件の犯人と断定することは早計に失する、旨の事実判断は、差戻しを受けた裁判所を拘束するとしていることである。しかし、原決定もいうとおり、最高裁決定は再審請求を棄却し、これを維持した再一、二審決定を取り消しているのであつて、本確定判決に対する上級審として、その一、二審判決を破棄しているわけではない。最高裁決定は再一、二審の審理不尽を言い、これが、原決定及び原原決定破棄の直接の消極的否定的判断として、差し戻しを受けた裁判所に対し、拘束力を持つことは明らかであるが、(本)確定判決の挙示する証拠だけでは請求人を強盗殺人罪の犯人と断定することは早計に失する旨の判示は、差し戻しを受けた下級審を拘束するものとは解されない。したがつて、やはり、前記国防色ズボン等を証拠から除くと、無罪を言渡すべきことが明らかであるか否かを、本件新証拠との関係をも考慮しつつ、具体的に検討しなければならない。

ここで留意すべきことは、右のように、国防色上衣や同ズボン等が本件の証拠にならなくなつたとともに、請求人の第四回検面調書をはじめ、その捜査段階での自白の再評価を迫られているということである。既述のとおり、請求人の第四回検面調書における請求人の供述と国防色ズボン・古畑第一鑑定は、一応互に補強し合つていたのである。本確定判決をした裁判所は、請求人自身が右国防色上衣や同ズボンを着用し本件犯行に及んだと自白するのみならず、鑑定の結果ズボンに被害者香川と同じO型血液が付着していると判定されたが故に、請求人の第四回検面調書における自白はこの点でも措信できるとしてこれらを証拠の標目に掲げたものであろう。しかるに、国防色ズボンや古畑第一鑑定を本件事犯に対する証拠とすることができなくなつたのである。このことは、これらが請求人の第四回検面調書における供述を補強しなくなつたことを意味する。それとともに、請求人の本件事犯時の着衣及びその洗濯に関する自白に疑いが生じてきたこと上記のとおりである。ということは、右供述部分に止まらず、請求人の自白全体の再検討を要することとなつたのである。そうすると自ら最高裁決定理由第二の二の(一)乃至(三)でいう疑点、即ち原決定のいう請求人の自白の信用性に関する三疑点が浮かび上つてくるのである。三疑点について、本確定判決をした裁判所もこうした疑点があることに気づいていたかも知れない。それでもなおかつ有罪の確定判決をしたのは、請求人が捜査段階において自白しているからその供述は間違いあるまいとの心証形成をしたことが、大きな比重を占めているであろう。しかるに、請求人の自白の再検討を迫られていること前記のとおりである。自白しているからといつて、ただそれだけでは信を措きえなくなつたのである。そうした意味で必然、三疑点が再び浮上して、検討の要が出てきたのである。原決定が三疑点について検討し今となつては更に取調べる証拠とてなく疑問を解明できないとか、検察官の提出した証拠ではなんら疑点を解明するに足りないとしたのに対し、検察官は抗告理由でこれを論難しているので、所論にそつて検討することとする。なお、検察官は当審において、三疑点等に対してもその疑問を解消する証拠として、松倉豊治作成の昭和五四年八月九日付鑑定書等の書証を提出してきた。そこで、三疑点に対する具体的検討に入る前に、ここで、本件における事実の取調一般の問題につき、当裁判所の見解を述べることとする。

本件は再審請求事件の即時抗告事件である。法は厳格な要件の下においてのみ再審開始を予定しているところ、原審は本確定判決に対し刑訴法四三五条六号の無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したときに該当するとして、再審開始を決定し、検察官がこれに即時抗告してきた事件である。したがつて、右証拠の新規性・明白性の存否の判断が再審開始許否を決する岐路となるわけであるが、当審において証拠の新規性については争いがないから、証拠の明白性に限つて考察する。ところで、刑訴法四三五条六号にいう「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とは、確定判決における事実認定につき合理的な疑いをいだかせ、その認定を覆えすに足りる蓋然性のある証拠をいい、それであるか否かは、もし当の証拠が確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたとするならば、果してその確定判決においてされたような事実認定に到達したであろうかというような観点から当の証拠と他の全証拠とを総合的に評価して判断すべきである、とされている。ここに当の証拠と他の証拠とを総合的に評価判断するということは、確定判決の基礎となつた積極証拠のみならず消極証拠(即ち両者を合わせたものが旧証拠)に、新証拠を加え総合評価すること、いわゆる新旧証拠を総合評価することを意味すると解されるが、それに当つても特段の事由もないのに、みだりに判決裁判所の心証形成に介入するのを是とはされていないのである。したがつて具体的には、通常、新証拠の持つ意味・証拠価値を明らかにし、それが旧証拠とどのように関連するか、新証拠の持つ重要性と立証命題との有機的関連において旧証拠はどのように再評価しないといけないか、それによつて確定判決の証拠判断及びその結果の事実認定がどのような影響を及ぼされるか、を審査することとなり、以上の作業により確定判決の事実認定に合理的な疑いが出てくれば再審開始決定をすることとなるのである。したがつて、それは確定判決の立場に身をおいて、即ち時間的には確定判決をした裁判所の立場に身をおいて判断することである。再審開始の許否を決すべき再審請求受理裁判所には、必要とあれば事実の取調をする権能を付与されているが、同裁判所がせねばならない事実の取調は、同裁判所のなすべき右審理の趣意にそつたものであるべきである。これに反し、再審請求に対する審判手続において、右のような審理を超えて、新旧証拠を総合評価した結果浮んできた確定判決の事実認定に対する合理的疑いを現時点において解明するための事実の取調を、せねばならぬというものではない。再審請求受理裁判所のする前記手続は決定手続である。刑訴法一条の精神よりみて、決定手続によつて、右のような合理的疑いが解明されるか否かを審理するのが必ずしも相応しい手続であるとも思われない。

したがつて、検察官の側から、右に記載したような合理的な疑いを解明するための事実の取調をすべきであり、これをすれば合理的な疑いは解消されるから再審を開始すべきでない、と主張して具体的な事実取調の申出があつても、このような主張は再審開始の許否を決すべき再審請求受理裁判所においては主張自体採用の限りでないと考える。まして、当裁判所は抗告審である。以上の見地よりみて、検察官から提出のあつた書証中、右のような当裁判所のなすべき審理手続の趣旨にそつた相当なもののみを採り上げ内容的に検討の対象にした。

なお、最高裁決定は、その末尾に「……差戻しを受けた原原審が、手記の筆跡について更に鑑定の手続きをとるか、第四回検面調書における申立人の自白について当裁判所が指摘した不合理、疑点が解明されないとして鑑定の手続きをとるまでもなく自白内容を検討し、能う限りの限度で事実調べをすることで結論を下すかは、その裁量に属するものである。」としており、あたかも再審請求に対する審判手続において三疑点についても解明のため事実の取調の要がありえるように読めなくもないが、原審は最高裁判所が示した前記二つの途の中、前者即ち、手記の筆跡についての鑑定の手続に象徴される再審請求事由即ち刑訴法四三五条六号の新規明白の証拠の存否の究明の途を選んだものであり、その観点からの決定をしていること明らかであるから、事実取調に関する当裁判所の前記見解は右最高裁判所と見解を異にする、という趣旨のものとは解していない。

2 具体的に三疑点の検討に入る。

(イ) 胴巻に血痕が付着していない点について

検察官は、被害者の着衣の状況、創傷の部位、特に胴巻を着用していたという部位付近などを考察し、頭部などに受けた傷により流出した血液が滴下して着衣につき浸透して素肌につけていると思われる肌巻に及ぶ可能性、肌を伝つて胴巻に及ぶ可能性などを検討してその可能性はない、と主張する。本件新旧証拠を総合しただけでも、夏冬メリヤスシヤツ、パンツの血液付着原因や、着衣を透過しあるいは肌を伝つて胴巻に血液が付着する可能性について、それはそれなりの説明となつているとは思われるが、請求人は血痕が付着していた手や庖丁を布で拭つたといつているが、果してどこまで拭いえたであろうか。検察官の所論は、被害者は仰臥して声も出ない状態の時点であつたので、請求人は被害者はもう死ぬだろうと考えて、比較的落ち着いてていねいにぬぐつたもの、と考えるという。しかし、湯や水を使つたわけでない、石けんを使つたわけでもない。ただ、布で拭つたというだけである。そのようなことでルミノール試験やベンチヂン試験に全く陽性反応しない程、胴巻への血液移着というものはありえないものなのか、疑わしく思う。更に請求人は自身の着衣を拭つたとは言つていない。特に請求人の着用していたという上衣の右袖にも血液が付着していたことは請求人自身供述しているところであるばかりでなく、右手に兇器を持つて兇行に及んだという犯行状況よりみて当然鑑定できるところである。請求人は被害者から胴巻を抜き取る前、被害者の身体に巻き、トンボ結び(真結びの意)になつているのを庖丁を右手に持つたまま両手で結び目を解いたという、また、胴巻を電気の所へ持つていつてから胴巻の口を右手に持ち左手を胴巻の口に突き込んだという。請求人は胴巻に血液が付着しないようにと、特に配慮していたわけではあるまい。これらの時胴巻に血液が移着しないだろうか。請求人は胴巻を抜き取る前被害者の着物を両方に開きチヨツキや襦袢を上にまくり上げたといつている。ところで、昭和二五年三月一日撮影香川重雄強盗殺人現場写真〔30〕~〔32〕によると、所論のいう白ネル襦袢は横に開かれている(同写真は、所論のいう毛糸アンダーシヤツを毛糸襦袢と呼称しているようである。請求人のいうまくり上げた襦袢とは、所論のいう毛糸アンダーシヤツをいうと思われる。)。そして同写真によると、被害者の左側の、開かれた白ネル襦袢の内側にも点々と血液付着が明認できるのである。請求人は胴巻を被害者のどちらの横側から引き抜いたというのか必ずしも定かでない。しかし、いずれの側から抜いたとしても、一四〇センチメートルという長さの柔軟性に富んだ胴巻を引き抜く時、胴巻が右血液に触れることはない、と言い切れるだろうか。更には、現場や被害者の着衣あるいは請求人自身の着衣に血が流れあるいは飛散していることが認められるところ、前記のような胴巻を持ち運んだり、これを弄つた際等に胴巻がこれら血液に触れないように留意することは至難のわざではなかろうか。また、財布から金員を取り出してポケツトに入れる際胴巻を手放さなかつたろうか。その際一四〇センチメートルという長い柔軟性に富んだ胴巻に血が付かないように配慮することができるだろうか。以上のように検討してくると、胴巻に血痕が付着していないことは、やはり本件新旧証拠を総合しただけでは疑問として残るものといわざるをえない。更に考えてみるのに、強盗目的で人を殺した者が、右手に庖丁を持つたまま、これを使つて胴巻を切ることもせず、わざわざ両手を使つて結び目を解き、血が付かないように留意して胴巻を引き出し、相当、部厚い財布が在中しているのに僅か四畳間でとにもかくにも二〇燭光の電灯がついているのに、わざわざ電灯の下まで行つてこれを確かめ、振つてみて出なかつたために左手を胴巻の中にさし入れて財布を取り出して金を取り、これを元どおり胴巻に入れて釣柄に掛けておくというようなことをする必要のないことはもとより、このようなことがありえようとも思われない。また、その胴巻の掛つていたところは前日新築の手伝いに行つてほこりのついたズボンの吊つてある内側であつたというにおいては、あまりにもていねいすぎ、むしろ被害者が着替えをする際ズボンを脱ぎ釣柄に掛け胴巻をはずして同じ場所に掛けたとみる方が自然である。検察官が抗告理由でいうところは一部首肯できるところもあるが、全体としてみると、結局疑問が解明し尽くされているとも思われず、やはり最高裁決定の指摘する合理的疑いは残るのである。

(ロ) 自白に符号する血痕足跡のない点について

検察官は靴裏に血液がベツトリついた場合でも数歩のうちに血痕足跡が消え去ること、畳や布などには相当量の血液が付着しないとこれを踏んだ靴裏から血痕足跡は生じないこと、当時の鑑識技術ではいわゆる顕在血痕足跡しか判別できず、いわゆる潜在血痕足跡を認知する技術は開発されていなかつたところ、後者の技術によれば潜在血痕足跡も発見しえ、自白に符合するものを発見しえたであろうと主張するが、主張は主張として、本件新旧証拠を総合しただけでは、請求人のいうような倒れている被害者より胴巻を抜き取つてから電灯の所へ行き胴巻を釣柄にかけたという請求人の自白に符合すると認めるに足る血痕足跡を見出せず、少なくとも足跡の面から見て、請求人が胴巻を奪つてから電球の所や釣柄の所へ行つたという自白を補強する積極的証拠はない、と言いえるであろう。

(ハ) 八、〇〇〇円投棄の点について

検察官の所論は、請求人は逮捕連行される途中、約八、〇〇〇円を護送されている自動車内から真実投棄したと主張するのか、それともそれは真実でなく他に費消したというのか、必ずしも明らかでないが、前者について所論の主張するところは請求人が自白するように護送途中投棄することが物理的に可能であるとするにとどまるところ、これすらきわめて可能性に乏しいものであるほか、相当大がかりな捜索にもかかわらず投棄したという紙幣は見つかつていないのである。護送の途中、八、〇〇〇円投棄したとするには合理的疑いがある。後者について、検察官は、犯行の動機となる借金のあつたこと、及びその督促を受けていたことについての立証は十分であり、賍金の使途についても、請求人は本件で奪取した金員のうち五、〇〇〇円を超える金額についてこれを費消したことを自白しており、その裏付けとして証人今井国太郎らによつて二、九五〇円位乃至二、四五〇円位の証明があり、請求人の費消した金額は本件の賍金なくしては説明がつかないのであつて、賍金全部の使途が解明されなくても、本件犯行に関する請求人の自白の裏付けとして十分であると主張する。請求人に、同人にとつては容易に返済できぬような多額の債務のあつたことは認められるが、請求人の供述によつても、請求人の奪取したと供述する金員の使途が必ずしも一貫せず、また、その説明が十分尽くされているわけではない。更にその裏付けあるところといえば、それ以上に乏しい。また、請求人がその費消した金員の調達先の証明が十分できないからといつて、また、どのように借金があり、金員を欲していたからといつて、本確定判決の判示するような請求人が金員強取をしたものと直ちに認定するのは、飛躍に過ぎる。そもそも、本件においては金員の被害にあつたということ自体についての補強証拠が極めて弱いのである。即ち、被害者香川重雄は二〇年も前、事業に失敗して他出し、本件事件の起る五年程前財田村へ戻つてからも妻子とは別居するようになり、爾来犯行現場に独り暮らしし、闇米を売買等して生活していたという者で、その金員収支の状況は余人の容易に窺い知り難い状況にあり、妻香川ツネも時々行つたり来たりしていたとはいうものの、同人すら被害者の所持金や金員被害に関しては「本件当時は知りませんが、何時も大金は財布に入れず小さい金を財布に入れ共に胴巻に入れて持つていた。平素私の見たところでは百円札としたら十五万円か二十万円位を胴巻に入れていたと思う。殺されたときは一万円か二万円であつたと思う、殺される四~五日前煙草を買いに来た事があるが、その時胴巻を見たのが最後で何時も一万円から二万円位持つていたからその時もその位持つていたと思う。」という程度の証言をするだけで(確定一審記録二〇三丁以下)、本件被害に関してはすべて推測推量であり、被害者の近隣である久保国助の証言でも「香川が風呂に入りに来た最後は十日程前で、その時現金はどの位持つていたか判然りと判らないが、重雄さんは自身(以前に)一万円か二万円位ぢやと言つた事を聞いているから、その時もその位入つていたと思う。」と証言(確定一審記録二〇八丁以下)するも、これまた推量の域を出でず、他に香川重雄が当時どの程度の金員を所持していたか明らかにするものがなく、本件金員強奪の罪体自体の補強証拠は極めて弱いといわざるをえない。加うるに、前記(イ)胴巻に血痕が付着していない点についての項で検討したとおり、香川の胴巻から金員を強奪したという請求人の自白内容には数々の疑点があること前記のとおりであり、他に足跡の面からみても、また、請求人の自供する賍金の使途の面からの解明という点からみても、請求人の金員強奪の自白を裏打ちするものがなく、他に補強証拠はない。胴巻以外の所から奪取したとみられる証拠もない。してみれば、請求人が当時金員に窮しており遊興費を欲していても、また、請求人の費消した金員の調達先の証明を請求人自身十分できなくても、また、請求人が香川の胴巻からの金員強取を自白していても、右自白自体を再評価すると、請求人が香川重雄よりその胴巻からはもち論、その他の所からも、金員を強奪したものであると認定するわけにはいかないのである。

このようにみてくると、被害者の胴巻から金員を奪取したとの請求人の自白にはその信用性に疑いを抱かざるをえず、また被害者香川が金員の被害に遭つたとの罪体自体についての補強証拠も極めて弱くいわば無きに等しいのであつて、そうしてみると、本件新旧証拠を総合すると、本件を請求人による金員を奮取した上での強盗殺人罪と認定するには合理的な疑いが存するものである。

検察官は抗告理由において、請求人の自白には自白の真実性の吟味にたええる秘密性をもつ具体的事実についての自白があるとして、いわゆる二度突きの自白を挙げ、更に国防色ズボンの右脚前面に血痕が付着していたという犯人しか知りえない秘密性をもつ具体的事実を捜査官が知る前に請求人が自白していると主張する。確かに、最高裁決定が二度突きにつき指摘するとおり、犯人ならではの自白は、犯行を認定するにつき重大な意義を持ち、請求人の有罪認定に関し有力な証拠となりえるものである。しかし、二度突きは殺人そのものに関することだけに、最高裁決定のいう右の点は殺人罪につき、特にあてはまるが、金員奪取の事実には直接関連した供述ではない。請求人の二度突きの自白が犯人ならではの秘密に関する自白であつたとしても、罪体自体についての補強証拠が弱いばかりか、最高裁決定が、それが解明されない限り被害者の胴巻から一万三千円を奪取したとして強盗殺人の罪に問われている請求人の自白の信用性について疑いを抱かざるをえないとまで評する、前記胴巻に血痕が付着していない点を始め、幾多の疑点がある、金員奪取の事実まで、認定させるに足るものではない。また、請求人が国防色ズボンの右脚前面に血液が付着しているという犯人しか知りえない事実を自白しているという点についても、そもそも国防色ズボンにあつた本件六個の斑痕が本件事犯時に被害者香川の血液が付着したことによつて生じたものと認めるには合理的疑いが多々あること前記のとおりであり右斑痕が本件事犯に関係あるものとは到底認め難いから、請求人の自白の中に国防色ズボン付着の右斑痕に照応する供述があると解したとしても、そもそも本件事犯とは無関係であつて、同供述が本件事犯に関し自白の真実性の吟味にたええる秘密性をもつ具体的事実についての供述である、ということはできない。

また、原決定は手記の筆跡について何の判断も示していない。しかし、仮にこの手記の筆跡が請求人のそれであつても、上記の疑点を解明するに足るものや補強証拠を強化するものでなく、これまでの検討経過に鑑み、右結論を変えしむるものではない。

3 しかし、ここでなお、考慮を要することがある。それは以上の検討だけで無罪を言渡すべきことが明らかであるとは直ちには言えない、ということである。上記した本確定判決に対する合理的疑いは着衣の外はすべて金員奪取にかかる点のみである。同様の疑念を抱いた最高裁判所もその最高裁決定において、「被害者の胴巻から一万三千円を奪取したとして強盗殺人の罪に問われている申立人の自白の信用性について疑いを抱かざるをえない。」としているのは同旨であろうと思われる。金員奪取を除くその余の事実は如何か。強盗殺人罪に問えなくても他の罪が成立するならば、直ちに無罪を言渡すべきことが明らかな場合であるとはいえない。ただ、刑訴法四三五条六号にいう、「原判決の認めた罪より軽い罪を認めるべき場合」に該るか否か等、別の問題となるだけである。確定判決のうち金員奪取の点を除くと、強盗は未遂としての強盗殺人罪、あるいは殺人罪、の成否が問題になると考えられる。

(イ) 先ず、強盗の点は未遂としての強盗殺人罪についてみてみよう。請求人の捜査段階の自白では、金員強取の目的であつた、と供述している。金員強奪の目的が存在した疑いがないわけではない。しかし、金員を奪取し終えたと認定するには合理的疑いのあること既に検討したとおりである。それなら何故物色した跡がないのだろうか。司法警察員作成の前記昭和二五年三月一日付検証調書によると、被害者の枕許付近において幾分取混ぜた形跡が認められる、というが、それ以上具体的記述がなく、これも物色した跡であると直ちには認め難い。箪笥も物色された跡がないというし、胴巻にも一〇〇円近い金員が入つたまま釣柄に掛つていたというのである。やはり強盗殺人罪の構成要件としての金員強奪の目的があると証拠上認められ、それが未遂に終つたのであると証拠に基づき認定するには、この点に関する請求人の自白があつても、本件新証拠によつて請求人の自白の再評価を要することとなつた以上、困難である。金員強奪未遂としての強盗殺人罪とするわけにはいかないのである。

(ロ) 次に殺人罪の点について検討してみよう。

本件を殺人罪に限つてみれば、上野博作成の鑑定書や司法警察員作成の昭和二五年三月一日付検証調書をはじめ罪体自体の補強証拠は十分あること等、これまで検討してきた金員奪取の点とは様相を異にするものがあるが、一面前記のとおり確定判決を支える有力な証拠の一角であつた国防色ズボン、古畑第一鑑定、遠藤鑑定第五項を本件事犯に採証できなくなつたし、また本件新証拠によつて請求人の自白中金員奪取の点につき合理的疑いが出てきたということは、ますます一連の自白の一部である殺人に関する部分についても再検討を要することにもなつたのである。

検察官は、請求人の二度突きの供述を自白の真実性の吟味にたええる秘密性をもつ具体的事実についての自白であると主張するが、再一審における証人藤野寅市、同広田弘の各証言により請求人の二度突きの自白が犯人ならではの秘密性を持つ事実の自白とするには疑問のあること既に最高裁決定の指摘するところである。この点に関し原審は、検察官の求めにより当時の捜査員の一人であつた巡査部長広田弘を証人として取調べこれを同人の従前の証言等の各証拠や、「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」と題する綴中の捜査状況報告控等に対比し、なお、原審の証言は措信できないとし、加えて、右捜査状況報告控等をもつて最高裁決定のいう請求人のいわゆる二度突きの自白を犯人ならではの秘密の事実の自白とすることに対する疑惑を更に決定的に深めるものであるとし、これをも刑訴法四三五条六号所定の無罪を言い渡すべき新規かつ明白な証拠であるとしている。これに対し検察官は抗告理由において厳しく原審のこの見解を非難したうえ、更に当審において、請求人のいわゆる二度突きに関する事実は請求人の自白するまで捜査官の知らなかつたところであり、考え及ばなかつたところである、とする立証趣旨の書証を多数提出してきた。しかし、これら書証を事実取調の対象にすることは弁護人らの強く異議をとなえているところである。しかも、すべて、検察官に対する供述調書であり、公判になつてもこれらを証拠とすることの同意が相手側から得られる見通しも今のところ立つておらず、証拠価値ばかりでなく、証拠能力の程も定かではない。もつと事実の取調をしないと、いわゆる二度突きの自白が犯人ならではの秘密の事実の自白に該当するか否か、にわかに決し難いものがある。

しかし、飜つて考えると、強盗殺人とするには合理的疑いのあること前記のとおりである。してみれば、殺人についても合理的疑いがあれば無罪を言い渡すべきことが明らかであるとして再審を開始すべきだろうが、殺人のみが認まつたところで、確定判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき場合に該るというだけで、同一事件について再審を開始すべきことに変りはない。もつとも、この点両者の法定刑中最高刑がいずれも死刑であるので法律論上疑問が出ないわけではない。しかし、刑訴法四三五条六号にいう原判決において認めた罪より軽い罪とは、その法定刑の軽い犯罪類型をさすと解すべきところ、強盗殺人罪の法定刑は死刑又は無期懲役刑であるに対し、殺人罪の法定刑は死刑又は無期若くは三年以上の懲役である。この場合刑法施行法三条三項との関係や刑法五四条一項等における取扱との比較の関係で、疑義がないわけではないが、刑訴法四三五条六号の前記の場合は、刑法五四条一項の場合と異なつて、軽さを定めるのであり、重きを定めそれによつて処断するのではない。また、刑訴法四三五条六号の場合は法定刑の比較だけの問題で、刑法五四条一項の場合のように同法一〇条三項により犯情の軽重により決する、ということも問題にならない。したがつて選択刑をも配慮して軽きものを適用する刑法六条の新旧比照の場合の方が参考となる(大審院昭和五年一二月八日判決・大審院刑事判例集九巻八五八頁参照)。本件において、法定刑中死刑又は無期懲役刑は両者同じであるが、殺人罪にはその他に選択刑として強盗殺人罪にはない三年以上の有期懲役刑が定められているので、刑訴法四三五条六号で「原判決で認めた罪より軽い罪を認めるべき」場合に再審を開始するとの趣旨及び刑法一〇条の精神よりみて、刑法施行法三条三項にもかかわらず、強盗殺人罪よりも殺人罪の方が刑訴法四三五条六号にいう軽い罪であると考える。したがつて殺人罪のみを認めるべき場合であるとしても、前記のように強盗殺人罪とするには合理的疑いがある本件においては、再審を開始せねばならぬことには変りはない。いずれにせよ、本件新証拠は再審を開始すべき明白性を有する証拠である。

してみれば、これ以上当裁判所で殺人の点について考究を続ける要はない。これ以上は、決定手続で再審を開始すべきか否かの決定をすべき責務を負う再審請求受理裁判所が、ましてや抗告審である当裁判所が、せねばならぬところではない。当裁判所としては既にその責務を終えたものと考える。

六 結語

してみれば、その余の検察官の抗告理由に対し判断するまでもなく、洗濯に関する船尾鑑定は同三上鑑定、古畑・池本回答書を総合すれば、刑訴法四三五条六号の新規明白な証拠であつて、再審を開始すべきであり、原決定と相当理由を異にするが、原審が再審開始決定をしたのは結局相当であつて、これを是認することができる。

よつて、検察官の抗告はその理由がないのでこれを棄却することとし、刑訴法四二六条一項後段により、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 伊東正七郎 裁判官 川上美明 裁判官 川波利明)

(別紙)

即時抗告申立書記載の理由

原決定は

最高裁決定が再一、二審決定破棄の直接の理由として示す、請求人谷口繁義の自白の信用性には疑いを抱かざるを得ず、確定判決の挙示する証拠だけでは請求人を本件の犯人と断定することは早計に失する旨の事実判断は、再一、二審決定に対する消極的否定的判断であるから、差戻しを受けた当裁判所としても一応その限度でこれに拘束されるところであるが、最高裁決定が右判断の縁由的事由として指摘する各疑点(とりわけ、そのすべてが解明されない限り請求人の自白の信用性に疑いを抱かざるを得ないとする三疑点)について、当審で取調べた証拠を加えて検討してみても、遂にこれを解明することができないから、当裁判所としても、結局最高裁決定の判断に従い、右の疑点を併せ考えれば、請求人の自白内容に数々の疑点があり、その信用性について疑いを抱かざるを得ず、確定判決の挙示する証拠だけでは、請求人を真犯人と断定することは早計に失するものといわざるを得ない上

一 新証拠として掲げた船尾血痕鑑定(船尾忠孝作成の昭和五二年一二月一〇日付鑑定書及び同人の昭和五三年二月一三日と同年三月一三日の証人尋問における証言)と岡嶋証言(証人岡嶋道夫の証言)によつて、犯行時に請求人がはいていたという国防色ズボン(証二〇号)に血痕が付着し、かつ、その血液型が被害者の血液型と同じO型であるとする古畑第一鑑定(古畑種基作成の昭和二六年六月六日付鑑定書)及び古畑第二鑑定(同人ほか一名作成の昭和四六年五月一〇日付鑑定書)は、いずれもきわめて信用性に乏しくなつたこと

二 右船尾血痕鑑定によつて、請求人が犯行時に着用していた国防色上衣(証一八号)に被害者の血がべつとり付着していたので、犯行後間もなく財田川で一回水洗いし、更に四時間位して石けんを使つて洗濯した旨の請求人の自白は虚偽の疑いを生じ、ひいて右国防色ズボンを犯行時に着用していたとの自白に疑問を持たざるを得ないこと

三 新証拠として掲げた「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」と題する書類綴中の昭和二五年三月一日午後九時三〇分国家地方警察本部受信財田村捜査本部発信の電話通信用紙、同年三月一一日付香川県警察隊長作成名義国警本部捜査課長及び広管本部刑事部長に対する強盗殺人事件発生並に捜査状況報告控及び同年三月九日提出の旨記載の強盗殺人事件発生並捜査状況報告案によれば、被害者の解剖直後ころから財田村捜査本部で捜査会議が開かれ、その場で解剖結果も報告され、二度突きにより生じたとみられる創傷の状況は捜査官らに周知されていたものと認められ、最高裁決定が宮脇警部補のみが二度突きの事実を知らなかつたというのは甚だ訝かしく、これを犯人しか知り得ない秘密性を持つ事実であつたことをたやすく肯定できない旨指摘する疑惑を、更に深めることとなつたこと

の諸点が認められるところ、前記船尾血痕鑑定、岡嶋証言及び前記三記載の捜査状況報告控等が確定判決をなした裁判所の審理中に提出され、これらと他の証拠を総合的に判断すれば、有罪の認定に合理的疑いを生じ、有罪判決に至ることはなかつたであろうことが明らかであるから、右各証拠は、刑事訴訟法四三五条六号所定の無罪を言渡すべき新規、かつ、明白な証拠に当たるというべきである。

旨判示した上、再審開始の決定をした。

しかしながら、原決定は、最高裁決定の指摘する各疑点について、証拠の判断を誤つた結果、これらの疑点は解明することができず、請求人の自白の信用性に疑いを抱かざるを得ないとし、更に新証拠として掲げる前記各証拠の評価を誤つたため、刑事訴訟法四三五条六号にいう明白性の到底認められないこれら証拠について、その明白性を是認し、同号による再審開始を決定したものであり、右の誤りは、原決定に影響を及ぼすことが明らかであり、到底破棄を免がれないものと思料する。

以下、その理由を述べる。

一 最高裁決定の指摘する各疑点(とりわけ、そのすべてが解明されない限り、請求人の自白の信用性に疑いを抱かざるを得ないとする三疑点)について、原決定は、「今となつては更に取調べる証拠とてなく、当裁判所としてもこれらの疑問を遂に解明することができず」(決定書一八丁表)とした上、「検察官のいうところは、単に最高裁決定が証拠判断を誤つたとして、これを非難するにとどまるものである。」(決定書一八丁表)として一蹴したが、これらの疑点は、検察官提出の証拠により既に、そのすべてが十分に解明されているのであつて、原決定の判断は不当である。

これに加え、原決定は、右解明のために検察官の提出した証拠をもつて、「新たな立証を現段階において検察側から自由に提出し得るものであるか、きわめて疑問である。」(決定書一九丁表)としているが、このような見解は、検察官提出の証拠を不当に軽視し、その結果、刑事訴訟法四三五条六号の要件の判断の誤りを招来したものであつて、きわめて不当である。

しかして、原決定が、自白の任意性、信用性を担保することとなる手記五通の筆跡について、事実の取調をしながら、この点につき、全く言及していないのは、不可解といわざるを得ない。検察官としては、右手記五通が請求人の自筆であることを証明し得、請求人の自白の任意性、信用性を十分担保し得たものと考える。

二 次に、原決定の指摘する新証拠について、検討するに

1 国防色ズボン(証二〇号)に付着する血痕の血液型の判定に関する古畑第一鑑定について、その鑑定の方法に関し種種問題点があるとして、その鑑定結果の当否が争われているが、同鑑定の方法及び結果が適正であることは、三上血痕鑑定(三上芳雄作成の昭和五三年八月四日付鑑定書及び同人の同年一〇月一六日の証人尋問における証言)、岡嶋証言等によつてきわめて明らかであり、古畑第一鑑定の結果、右ズボンに付着していた血痕の血液型と被害者の血液型とが一致することは、明白である。

これに対し、古畑第一鑑定を攻撃する船尾血痕鑑定は、それ自体信用性がなく、また、岡嶋証言も、その全趣旨に徴し、原決定がいうように古畑第一鑑定の信用性を損うものではないのであつて、右船尾血痕鑑定を他の証拠と総合判断するとき、到底確定判決を動揺させるに足りる明白性があるとはいえない。

また、古畑第一鑑定の結果の正当性を裏付けるに足る古畑第二鑑定の際、右国防色ズボンに付着していた血痕が同第一鑑定以後に付着したものでないことは、池本証言、三上血痕鑑定等によつて明らかであり、疑う余地がない。

更に、請求人が国防色上衣(証一八号)及び国防色ズボン(証二〇号)を犯行時に着用し、かつ、右各着衣を洗濯したとの自白の真実性は、船尾血痕鑑定の結果によつて害されるものではない。

2 犯人しか知り得ない秘密性をもつた自白と認められる二度突きの自白の反証として、原決定が掲げる前記三記載の捜査状況報告控等は、単に当時の捜査会議の状況を知り得るにすぎないものであつて、宮脇豊警部補が二度突きのことを知らなかつたとする事実を、いささかも動揺させるものではない。

以上のとおり、原決定は、最高裁決定の指摘する疑点について、十分な検討をしないで解明不能とし、確定判決の挙示する証拠だけでは、請求人を本件の犯人と断定することは早計に失すると判断したのは、いわば理由不備ないし審理不尽であるという他なく、かつ、前記新証拠についての明白性の判断を誤り、無罪を言渡すべき明らかな証拠があるとしたことは失当であるから、原決定を取消し、請求人の再審請求を棄却する裁判を求めるため、本件即時抗告に及んだ次第である。

おつて、本件即時抗告の理由の詳細については、後日、補充書を提出する。

即時抗告理由補充書記載の理由

第一はじめに

原決定は、本件再審請求事件につき

最高裁決定が再一、二審決定破棄の理由として示した請求人の自白の信用性に関する各疑点等は解明することができなかつた上、新証拠である船尾血痕鑑定、岡嶋証言及び後記第四記載の捜査状況報告控等は、それらが確定判決をした裁判所の審理中に提出され、これらと他の証拠を総合的に判断すれば、有罪の認定に合理的疑いを生じ、有罪判決に至ることはなかつたであろうことが明らかであるから、右各証拠は、刑訴法四三五条六号所定の無罪を言い渡すべき新規、かつ、明白な証拠にあたる。

旨、判示して再審開始の決定をした。

原決定は、まず最高裁決定の指摘する各疑点等について、十分な審理を尽くさず、かつ、証拠の判断を誤つた結果、すでに合理的に解明されているか又は容易に解明されるべきはずの右疑点等を解明することができず、また、請求人の自白の信用性に疑いを抱かざるを得ないとした上、更に新証拠として掲げる前記各証拠が刑訴法四三五条六号の明白性を備えていないのに、これに対する評価を誤つて、その明白性を是認し、同号による再審開始を決定したものであり、右の誤りは、原決定に影響を及ぼすことが明らかであるので到底、破棄を免がれないものと思料する。

以下、その理由を述べる。

第二最高裁決定が指摘し、原決定も踏襲する自白の信用性に関する各疑点等について

原決定は、最高裁決定が指摘する、一、請求人の自白の信用性に関する三疑点、すなわち、1被害者の胴巻に血痕が付着していない点、2犯行現場に自白に符合する血痕足跡がない点、3請求人が自動車で護送される途中着用のオーバーのポケツトから強奪金の費消残金八千円を捨てたという点、及び、二、そのほか請求人の自白内容について不審を抱かせる五留意点、すなわち、1請求人が犯行時はいていたと自白した黒皮短靴が公判廷に提出されなかつた点、2被害者方軒下に遺留されていたリユツクサツクについて取調べが不詳な点、3被害者方母屋西南隅前のズツク靴足跡の解明がなされていない点、4国防色ズボン(証二〇号)の押収手続がずさんであつた点、5自白の真実性の吟味にたえ得る秘密性をもつ具体的事実についての請求人の供述が存しない点(いわゆる二度突きの自白が犯人しか知り得ない秘密性をもつ事実であつたかについて疑問があるほか、他に自白の真実性の吟味にたえ得る秘密性をもつ具体的事実についての請求人の供述はないとする点)の諸点のうち、被害者の胴巻に血痕が付着していない点(前記一の1)、犯行現場に自白に符合する血痕足跡のない点(一の2)、黒皮短靴の点(二の1)、ズツク靴足跡の点(二の3)、国防色ズボンの押収手続の点(二の4)の各点については、「今となつては更に取調べる証拠とてなく、当裁判所としてもこれら疑問を遂に解明することができず(なお、これらの点に関し検察官のいうところは、単に最高裁決定が証拠判断を誤つたとして非難するにとどまるものであつて、失当である。)」という。また、その余の疑点等についても、八千円投棄の点(一の3)は、検察官提出の証拠は、「オーバーの襟の内側の小さなポケツトに百円札八〇枚余を入れることが実験的に可能であるというにすぎないものであつてなんら疑点を解明するに足りない」し、その余の他の秘密性をもつた供述は存しないとの点(二の5)についても、検察官から提出された「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」と題する書類綴中の昭和二五年八月二六日付「強盗殺人事件検挙について」と題する報告書は、「これに対応するとみるべき請求人の供述内容や当時の捜査経過にも照らし、これをもつて自白中に秘密性を持つ具体的事実の供述があるとするにはかなりの疑問がある。」し、遺留リユツクサツクの点(二の2)に関する検察官提出の書証は、「これによつてその点の疑問を解消し得るとしても、最高裁決定の自白の信用性に関する判断にいささかの動揺を与えるものではない。」という。

しかし、最高裁決定が請求人の自白の信用性を疑わせるものとして示した右疑点等については、以下述べるとおり、十分解明されているもので、原決定は証拠の判断を誤つている。

最高裁決定指摘の疑点中一の1、2及び留意点中二の1、3、4について、原決定は、右のとおり、これらの疑問を遂に解明することができず、これらの点に関し検察官のいうところは、単に最高裁決定の証拠判断を非難するにとどまるものであるとするが、右批判は全くあたらない。

なるほど、これらについては、検察官は、既存の証拠のみで解明され得るものと考え、特段の証拠を提出することなく、意見陳述を行うにとどめたのであるが、右意見は、証拠に基づいた客観的合理性に富むものであつて、なんらの裏付けもなく、単に最高裁決定の証拠判断を非難するにとどまるものではない。したがつて、裁判所が虚心に右意見を吟味検討すれば、右のような誤つた判断とはならなかつたものと考える。そして、もし裁判所が、検察官の主張について、その客観的合理性になお十分な心証を得られないというのであれば、職権で証拠の取調べを行つて明らかにすべきであつた。この点について、原決定は、今となつては取調べる証拠もないというが、本抗告審で提出を予定している証拠のように取調べる証拠は存在するのであつて、この点において審理不尽というほかない。

次に、最高裁決定指摘の疑点等中一の3、二の2、5について、原決定は、検察官提出の証拠の評価に関し言及し、これらの証拠は、疑問点を解明するに足りず、又は自白の信用性に関する疑いを解消するものではないとしているが、これもまた誤つた判断というほかない。

なお、最高裁決定が指摘した請求人名義の手記五通の筆跡については、原審において、これを請求人の筆跡とは認めがたいとする高村鑑定の明白性の問題をも含めて、詳細な事実調べをしておきながら、原決定がこの点につきなんら言及していないことに注目すべきである。このことは、とりもなおさず、原裁判所も、検察官の意見と同じく、右手記五通が請求人の自筆であることが証明されたと判断したからであるとみられるが、そうだとすれば、この点も、請求人の自白の信用性を担保し得る有力な資料になると考える。

一 三疑点について

1 被害者の胴巻に血痕が付着していない点について

この点について、原審において検察官意見書(昭和五三年一月一二日付八五頁ないし九〇頁及び同五四年一月三一日付二六頁ないし三七頁)で述べたとおりであるが、更に、とりまとめて述べる。

(一)(1)  上野鑑定書(二〇分冊一三二丁裏ないし一四七丁裏)によると、被害者の創傷部位は多岐にわたつているが、このうち血液の付着、飛散、貯溜の生じる相当な出血があつたと認められる創傷は同鑑定書創傷番号(一)、(二)の頭頂部切割創、同(八)、(九)、(十一)の口辺部の刺切創、同(十七)、(十八)、(十九)の右手指切創、同(二十二)、(二十三)の右大腿部刺切創、同(二十六)の左拇指切創であり、これらは、頭部、顔面、四肢部に集中している。

これに対し、胸部、腹部の創傷としては、いわゆる二度突きに関連する同(十二)、(十三)の左前胸部刺切創並びに同(二十九)の長さ約二センチメートル巾約〇・六センチメートルの陰阜の刺切創及び同(十五)の腹部右鼠蹊部皮下表皮剥脱がある。同(十二)の創傷は、相当な出血がみられるものの、血液のほとんどが胸腔内に貯溜し、外部へ流出したものはわずかである。その他の(十三)、(二十九)、(十五)の創傷は、きわめて少量の出血があつたにとどまる。

(抗告審で更に立証の予定)

(2)  次に、司法警察員作成の昭和二五年三月一日付検証調書(二〇分冊七六丁裏ないし七八丁表)によると、犯行現場である被害者方四畳の間の畳、布団、ふすまなどに多量の血液が付着、飛散、貯溜している。

このうちで顕著なものは

〈イ〉 被害者の寝具、特に敷布団の中央南寄りの範囲及び掛け布団の一部

〈ロ〉 布団の位置より北側、死体の仰臥した位置までの間の敷紙(四畳の間の東側から畳二枚半に至る間に厚紙が敷かれている。検証調書・二〇分冊七六丁表)の上、特に東側より二枚目の畳の北半側に相当する部分

〈ハ〉 死体の周辺、特に左肩部ないし胸部左側付近である。いずれも、かなり広い範囲に血液が付着、飛散しており、殊に死体の左肩部二尺四方が血の海となつている。

(抗告審で更に立証の予定)

(3)  しかして、請求人の第四回検面調書(二二分冊一二九七丁表ないし一三〇三丁表)によると、請求人は

〈1〉 私は、部屋に入り、香川の枕許当りに胴巻けないかと探しましたが、見当らないので、咄嗟に香川をやつて終つて(殺す意)金を探そうと考え、中腰の姿勢で庖丁の刃を下に向けて右手に本手に握り、香川の右横から咽喉をめがけて突き刺したところ、頭髪で顔をかくしていたため、十分見えず手許がくるつて香川の左あごの当りに刺し込んだ。庖丁で香川の顔面を一突きした瞬間、その侭刺しておると、香川は「うわつ」と二、三回大きな声をあげ、右手で顔に突き刺つた庖丁の刃を握つたので、私は直ちに庖丁を手許に引くと、香川が直ぐにかけ布団を両手ではねのけて上半身を起し、敷布団の上に座り何か大きな声をあげましたが、何と叫んだのか覚えておりません。私は、その声で裏の久保国助でも聞こえると困ると思い、中腰で矢継ぎ早に香川の右顔面部当りを二、三回突いた。

〈2〉 香川は、私が入つたふすまの方へ逃げ様としましたので、私は同人の背後から、その頭部をめがけて一、二回庖丁で切り下げ、香川の前面をふさいで香川の方を向いて入口に立ちました。

〈3〉 すると、彼は、今度は北側の障子の方へ向うてほうて行き、障子のさんに手をかけたので、私は、背後から同人の腰の当りから一突きしたと思います。そして香川は、指を障子にかけた侭、眼では私の持つている庖丁の方を見ながらいざり始め、何か救いを求めると思われるような声を二声、三声あげましたが、その声はもう先程の声よりも余程低くなつておりました。そこで私は、自分の方を向いておる香川の顔面めがけて四、五回直突きをやると彼は中腰になつて私の方を向いたので、私は同人の首の当りを三、四回位突きました。

〈4〉 すると、彼は箪笥の方へ頭を向け、足を北側の障子の方へ向け、斜めに仰向けになつて倒れ、手足や全身をぶるぶると振わせましたが、この時はもう声を立てませんでした。そこで私は香川はもう大丈夫死ぬだろうと思い、いよいよ金を盗ろうと考えて、庖丁や手についた血を香川が下の方に着用していた切れのようなもの(布ではあつたが、何だつたか記憶なし。)でぬぐい、庖丁を右手に持つた侭、左手で香川の着物を両方に開き、チヨツキや襦袢を上にまくり上げますと、へその当りに垢のついた白木綿の胴巻きを巻き、左側でトンボむすび(真結びの意)にしておりました。胴巻きには紐はついていなかつたと思います。そこで、庖丁を持つた右手と左手で胴巻きの結び目をほどき、左手で手前に胴巻きの端をつかんで引き出した。

〈5〉 私は、香川が最初寝ていた寝床の枕許の上当りに釣つてあつた電気のところへ行つて調べますと、胴巻きの中央部に財布らしいものがありましたので、左手で胴巻きの片端を握り、片端を下に向けてふりましたが、財布が出ないので胴巻きの口を右手に持ち替え、左手を胴巻きの口に突き込んで財布を取り出しました。財布は二つ折りで、色も生地も記憶はありませんが、幅が四、五寸長さが七、八寸位あつたように思います。財布の中には、百円札が二つ折りにして厚さ約一寸位あり、十円札、五円札は折らずに厚さ約一寸位あり、百円札も十円札も二つの浅い袋に入れてあり、深い袋の方には小銭らしいものがありました。

〈6〉 私は、百円札と十円札全部を穿いて行つた国防色中古ズボン(証二〇号)の左横ポケツトに入れた後、財布は元のように胴巻に入れて、寝室と座敷の境の上の方にあつた着物かけの向つて右の一番端の二番目当りのところへかけたと思います。当時着物かけには何か衣類らしいものがかけてあつたと思いますが、種類は判然いたしません。

〈7〉 右のように金を盗つてから香川の倒れているところへ引き返しましたが、顔が血でよごれ未だ血が下にたれておりましたので、私は恐ろしくなり、箪笥の付近に置いてあつた新聞の中一枚を取つて香川の顔面に横にかぶせました。新聞は判然記憶しませぬが、先ず十枚前後はあつたと思います。

〈8〉 そして私は、香川が後で生き返ると困るので、心臓を突いて置こうと考え、香川のへその上当りを股ぎ、チヨツキや襦袢を前にまくり上げて胸部を出し、庖丁を刃を下向けに右手に持ち、あばらの骨に当ると通らんので、刃の部分を自分から向かつて斜め左下方を向けて左胸部の心臓と思われるところを大体五寸位突き刺しましたが、血が出ないので、庖丁を二、三寸ぬき(全部ぬかぬ)、更に同じ深さ程度突き込み、一寸の間香川の様子を見ましたが、香川は全然動かんので、もう大丈夫香川は死んだと思つて庖丁を引きぬいたのであります。

〈9〉 右のように香川の心臓部当りを刺して後、香川が身体につけていた着物で庖丁をふいて右手に持ち、若しや裏の久保国助が起きた気配はなかろうかと考えて、北側の障子の西の端当りで耳をすまして様子を窺いましたが、一向それらしい様子もないので、大急ぎで北側の障子寄りの方を大股に通り、犯行現場の部屋から出ました。

と述べている。

(4)  ところで、被害者は、上体に、外側から袷寝巻、白ネル襦袢、チヨツキ、毛系アンダーシヤツ、冬メリヤスシヤツ(証一三号)、夏メリヤスシヤツ(証一一号)と六枚の衣類を着用しており、その内側に、へそのあたりに長さ約一四〇センチメートルの胴巻を巻いていた(昭和五四年一月三一日付検察官意見書二八頁ないし三三頁参照、検証調書添付写真29ないし32、37・二〇分冊一一四丁ないし一一七丁、一二二丁、裁判所領置目録・二〇分冊三九丁表裏、検察庁領置目録・一分冊一九五丁)。

(二) 以上の事実からみると、被害者は、かなり多量の出血をきたす多数の創傷を受け、現実に多量の血液が四畳の間の布団、畳等に付着、飛散、貯溜していたが、請求人の前記自白によると、被害者は請求人の攻撃に対し反撃など積極的な行動は行つておらず、もつぱら防禦又は逃避に終始しており、その体勢は初めは仰臥位、続いて布団の上に起きあがり、次いで布団の外へ出て、東側板の間への出入口方向へ這い出し、引き続いて北側木戸障子側へ這い、又はいざり歩き、最後に、四畳の間の西寄りに倒れて仰臥したのであつた。

したがつて、被害者が当初仰臥位で就寝中、顔面に受傷して上半身を敷布団の上に起こした瞬間に、被害者の頭部、顔面の創傷の血液が上胸部着衣上に流下又は滴下することはあつても、それ以外の場面では、このようなことはあり得ず、これらの血液は、出血部位から直接布団、畳等に落ち、前述のように付着、飛散、貯溜したものと認められる。右のように、若干の血液が上体の着衣へ流下又は滴下したとしても、それは上体に着用していた前述の六枚の着衣のうち、外側の袷寝巻、白ネル襦袢等に付着するにとどまり、その内側の冬、夏メリヤスシヤツにまで浸透することはなく、まして、素肌に付けていた胴巻にこの血液が付着することは考えられない。

(抗告審で立証の予定)

(三)(1)  もつとも、検証調書添付写真29ないし32、37(二〇分冊一一四丁ないし一一七丁、一二二丁)及び古畑第一鑑定書添付写真の一(二一分冊四〇九丁表)によると、被害者が素肌に着用していた夏メリヤスシヤツとその外側に着ていた冬メリヤスシヤツの各裾部分にも、血痕が付着している。

しかし、右血痕の付着状況を子細に点検すると、この冬、夏メリヤスシヤツの血痕付着の場所、状態が異なつており、殊に夏メリヤスシヤツは、シヤツの最下端に広い範囲に小さな血痕がわずかずつ点在しているにすぎない。もし、頭部、顔面等の創傷から流下又は滴下した血液の付着であれば、重ね着をしている以上、この両メリヤスシヤツのほぼ同一の場所に同一の状態に浸透、付着するはずであるが、右のように付着の状態が異なつているところからみると、頭部、顔面等の創傷から流下又は滴下した血液が内側に浸透、付着したものでないことが明らかである。

(抗告審で更に立証の予定)

(2)  そこで、この両メリヤスシヤツの血痕の付着原因を考えると、請求人の前記自白によれば、請求人は胴巻を抜き取る際と二度突きの際の二回、両メリヤスシヤツを、それより外側に着用していた衣類とともに、まくり上げている。特に二度突きの際は、左上胸部の直接刺身庖丁で刺すため、大きくまくり上げている。このようにまくり上げられた両メリヤスシヤツが、前述したように被害者が外側に着用していた袷寝巻、白ネル襦袢等に付着していた血液、その他の場所の付着血液に接触し、血液が両メリヤスシヤツに移着することはきわめて自然である。そして、両メリヤスシヤツの前述の血液の付着状況は、このような形の移着によつて生じたものと考えるのが合理的である。

そうだとすると、両メリヤスシヤツに血液が付着した時期を、胴巻を抜き取るため、両メリヤスシヤツをまくり上げた際とみても、右のようにして血液の移着した両メリヤスシヤツを下ろす際は、その前に胴巻を抜き取つているのであるから、胴巻に血液が付着するわけはない。その時期を二度突きのため両メリヤスシヤツをまくり上げたときとすれば、なお更である。

(抗告審で立証の予定)

(四) また、胴巻を抜き取るときに、他の衣類等に付着した血液が胴巻に移着するおそれがないかとの点について、請求人の前記自白によると、請求人は、被害者がそこに倒れて間のない、したがつて、いまだ出血量の多くない時期に、衣類をまくり上げて胴巻を抜き取つたというのであり、しかも、胴巻をしていた身体の部分は血液付着のない箇所であるから、胴巻に他の衣類等の付着血液が接触することはないので、右のおそれはない

(抗告審で立証の予定)。

(五) 古畑第一鑑定書添付写真の二(二一分冊四〇九丁表)によると、被害者のパンツにも、被害者の血痕が若干付着しているが、この血痕は、被害者の前記陰阜の創傷からの少量の血液がパンツの下部を中心に付着し点在しているにすぎないものと認められ、右陰阜の創傷の血液が胴巻に付着する蓋然性はきわめて乏しい(抗告審で立証の予定)。

(六) 請求人の手に付着していた血液が胴巻に付着していないのは不自然であるとの点について、請求人の前記自白によると、請求人は被害者の衣類をまくり上げて胴巻を抜き取る直前に、手と凶器に付着していた血液を布でぬぐつているので、胴巻を抜き取る際すでに、手に血液はついていなかつた。しかも、その際、被害者は仰臥して声も出ない状態であつたので、請求人は、被害者はもう死ぬだろうと考えていたというのであるから、比較的落ち着いて、ていねいにぬぐつたものと考えられる。したがつて、請求人が胴巻を抜き取つた際や、前記自白にあるその後の請求人の行為によつて、胴巻に血液が付着しないのは当然である(抗告審で立証の予定)。

(七) 次に、請求人が奪つた札三、四枚にも血液が付着していたとの点について、請求人は、奪つた金のうち八千円を投棄したことを供述した供述調書の箇所で、札に血液が付着していたものがあつたと述べているのみであつて(第四回検面調書・二二分冊一三〇九丁表)、右血液が人血か否か、被害者の血か請求人の血かなど、また、それが札に付着した時期あるいは請求人がその付着を認識した時期については述べていないので、右供述があるからといつて直ちに、請求人が犯行現場において財布から札を抜き取る際に札に血液が付着したものとは認定できない。

(八) 最後に、胴巻が釣柄にかけられていた状況について、最高裁決定は「検証調書には″胴巻は在中金八九円余を残したまま、犯行現場の着物かけの釣柄にかけてあつた被害者のズボンの下にかけてあつた。″と記載されているが、この点からも、被害者の腹部に胴巻が巻かれていなかつたのではないかとの疑いを生じる。」旨指摘している。

(1)  しかし、検証調書には、「被害者が常時携帯するという胴巻は、被害当日の昼間近所の東條新一方に新築の手伝いに行き、土埃の付着したズボンを吊つた内側に共に吊つてあつた。」と記載されており(二〇分冊七八丁裏)、ズボンの下にかけてあつたと記載されているのではないことに留意すべきである。

右の「内側」というのは、釣柄のつけ根側、すなわち、釣柄が取りつけられた壁(本件の場合は鴨居)に近い釣柄の部分であり、したがつて、釣柄の外側とは、内側に対して、釣柄の先端部分をいうのである。右ズボンのかけ方をみると、犯行現場の四畳の間の東南隅の鴨居に取りつけてあつた釣柄(高さ約一七八センチメートル)の先端に、別紙図面1のとおり、ズボンの上部の一端をひつかけて吊り下げたものと認定できる(抗告審で更に立証の予定)。

右のようなかけ方では、通常、ズボンは釣柄の先端にわずかにかかるだけで、釣柄のつけ根側、つまり釣柄の内側までかぶさることがないので、ズボンをかけた釣柄の内側に胴巻をかけることができる。このようなズボンと胴巻のかけ方であつたことが、検証調書の前記記載で明瞭である。

(2)  最高裁決定の前記指摘は、検証調書の右記載を「胴巻は(中略)釣柄にかけてあつた(中略)ズボンの下にかけてあつた。」、すなわち、別紙図面2のとおり、釣柄に胴巻をかけたのち、その上にズボンを同じ釣柄にかけたものと読み誤つて引用し、これに基づいて、請求人の前記自白によれば、請求人は、何か衣類らしいもの(ズボンと認められる。)がかけてあつた釣柄に、胴巻をかけたというのであるから、ズボンと胴巻の上下の関係が逆になり、検証調書の記載と自白の内容に矛盾、不合理があるので、被害者の腹部に胴巻が巻かれていなかつたのではないかとの疑いを生じるというものであり、明らかに失当である。

また、最高裁決定のいうように胴巻がズボンの下にかけられていた場合、胴巻はズボンに隠れて見えにくくなる。胴巻がズボンの内側にかけられた場合は、胴巻は見えにくくはならない。ところで、警察官より早く現場に臨んだ被害者の妻香川ツネは、部屋に入つたとき、釣柄にかかっている胴巻にまず気がついているのであるから、この点からも、検察官の右に述べたところが正しいことが裏付けられる(香川ツネ証言・二〇分冊二〇四丁裏、二〇五丁表、抗告審で更に立証の予定)。

右のとおりであるから、最高裁決定の検証調書の引用と指摘は誤つており、胴巻のかけ方と請求人の自白との間に矛盾、不合理はない。

2 自白に符合する血痕足跡がない点について

この点について、原審において検察官意見書(昭和五三年一月一二日付九〇頁ないし九三頁)で説明しているが、更に詳しく述べる。

(一) 前記第二、一、1、(一)、(1) 、(2) で述べたとおり、本件犯行現場にはかなり多量の被害者の血液が流出し、これが畳等に付着、飛散、貯溜していた上、請求人の自白によると、請求人は

〈a〉 負傷して逃げようとする被害者に追従して被害者の枕元から部屋の東側入口、更に部屋の北側寄りを通つて、部屋の中央よりやや西側の被害者が倒れて仰臥した位置へ進み(前記第二、一、1、(一)、(3) において引用した請求人の第四回検面調書記載部分の番号〈1〉〈2〉〈3〉の行動。以下、番号につき同じ。)

〈b〉 同所で被害者の腹部の胴巻を抜き取つてから、被害者の寝ていた布団の枕元付近の電灯のつるされている地点に戻り、そこで胴巻の中味を確かめ(番号〈4〉〈5〉の行動)

〈c〉 金員を奪つた上、その傍らの釣柄に胴巻をかけた後、再び被害者の仰臥位置へ戻り(番号〈6〉〈7〉の行動)

〈d〉 奥のタンスの上から新聞を取つて仰臥している被害者の顔にかぶせ(番号〈7〉の行動)

〈e〉 被害者の胸部を刺した(いわゆる二度突き)後、部屋の北側寄りを通つて、部屋の東側入口から板の間に出て立ち去つた(番号〈8〉〈9〉の行動)

ことが認められる。

(二) 右のような状況であるのに、血痕足跡が検証調書に記載されている四個(ほかに四畳の間の東側の板の間に一個)しか認められなかつたのは、不自然ではないかと、最高裁決定は指摘するのである。

しかし、血痕足跡は、歩行者が血液付着場所を踏み、履物の裏面に付着した血液が畳等に移着して印象されるものであるが、血液付着場所を踏んだ以上、必ず視認される程度に印象されるというものではなく、血液の付着している床面、敷物等の性質、状況、付着血液量又は履物の裏面及び印象される場所の床面、敷物等の性質、状況等の諸条件によつて、全く印象されないことや、印象されるにしても、その程度に濃淡の差がある。濃淡の差によつて、血痕足跡を区分すると

〈甲〉 血痕足跡と明瞭に視認できるもの(顕在血痕足跡)

〈乙〉 血痕足跡の疑いのある斑痕の視認できるもの(血痕足跡よう斑痕)

〈丙〉 血痕足跡よう斑痕すら視認できないもの(潜在血痕足跡)がある。

ところで、血痕足跡は、本件犯行より後の昭和三〇年ころからベンチジン等の薬品を用いて科学的に検出されるようになつてからは、血痕足跡よう斑痕や潜在血痕足跡までも、正確に判定できるようになつたが、本件当時は、血痕足跡の有無を肉眼で視認して確認するほかなく、潜在血痕足跡は全く検出できなかつたし、血痕足跡よう斑痕についても、十分な確認ができない点で証拠として不確実であるとして取り上げられず、検証調書には、顕在血痕足跡のみが記載されていたのである。

顕在血痕足跡は、血液が貯溜して血糊状態(いわゆる血の海)となつている場所に足を踏み入れ、多量の血液が履物の裏面に付着した場合に印象されるものである。そして、このような血の海の状態は、多量の血液が小範囲の特定の場所に流出し、しかも、その場所の床面あるいは敷物が血液を吸収しにくい場合に生じる。したがつて、多量の血液が流出している犯行現場であつても、顕在血痕足跡は意外に少数にとどまるのが通例である。

(三) これを本件についてみると、本件犯行現場の四畳の間において血液が多量付着していた場所は、前記第二、一、1、(一)、(2) で述べたとおり、〈イ〉の被害者の寝ていた布団の上、〈ロ〉のその布団の北側の敷紙(厚紙)及び畳の上、〈ハ〉の死体の周近の畳の上の三か所である。しかし、右〈イ〉の布団などの布地類は、すみやかに血液を吸収する。〈ロ〉も大部分が厚紙上であり、厚紙も、同様血液を吸収し易い。しかも、右〈イ〉〈ロ〉の各場所における血液の付着は、請求人の前記自白によれば、請求人が被害者の枕元で被害者の頭部、顔面等に刺切創を加え、直ちに逃げる被害者を追いながら更に刺したこと(番号〈1〉〈2〉〈3〉の行動)によつて生じたものであり、被害者が迅速に移動しているので、その血液の流出が小範囲の特定の場所に集中することなく、広い範囲に散布されたものと認められる。

これに対し、右〈ハ〉の場所は、血液を比較的吸収しにくい畳である上、被害者が本件発覚まで仰臥姿勢のまま動いていないので、その頭部、顔面から持続的に小範囲の特定の場所に血液が流出し、時間の経過とともに、漸次、これが貯溜し、その結果、被害者の左肩部付近二尺四方が血の海となつていたものと認められる。

したがつて、右〈イ〉〈ロ〉の場所を歩行しても、履物に付着する血液の量はきわめて少ないので、ほとんど潜在血痕足跡となり、顕在血痕足跡が印象されることはあり得ない。

また、右〈ハ〉も、流出血液が貯溜して血の海の状態となるまでには、ある程度の時間の経過を必要とし、それまでは右〈イ〉〈ロ〉の場合と同様である。血の海状態が形成されはじめた後に、そこに足を踏み込むことによつて顕在血痕足跡が印象される。

このようにみると、請求人の前記行動のうち、〈a〉〈b〉〈c〉の各行動は、〈イ〉の布団の上、〈ロ〉の敷紙又は畳の上、〈ハ〉の血液の貯溜する以前の畳の上を歩行したにすぎないので、顕在血痕足跡を生ずることはあり得ない。検証調書に記載されている血痕足跡が問題となるのは、右血の海に足を踏み込む可能性のある〈d〉〈e〉の行動のみである。検証調書に記載されている顕在血痕足跡である血痕足跡四個は、右血の海に足を踏み込んだところからはじまり、四畳の間より前記板の間に立ち去る形となつている。これは、請求人の本件犯行の最終段階の行動、すなわち請求人の前記〈e〉の行動に一致する。

(四) 次に、検証調書の写真18ないし21、24ないし29、31ないし36(二〇分冊一〇三丁ないし一〇六丁、一〇九丁ないし一一四丁、一一六丁ないし一二一丁)を子細に点検すると、〈ハ〉の被害者の仰臥死体の周辺には、検証調書で認められている顕在血痕足跡一個のほか、相当数の血痕足跡よう斑痕が認められる。この血痕足跡よう斑痕は、請求人が胴巻から財布を抜き取り、被害者の仰臥位置に戻つてからのちの行動、すなわち請求人の前記〈d〉〈e〉の行動に符合するものとみられる。また、右写真点検の結果、〈イ〉の布団の上、〈ロ〉の厚紙及び畳の上、〈ハ〉の畳の上に相当数の潜在血痕足跡のあつた状況も、濃厚に疑えるのであるが、これらは、請求人の〈a〉〈b〉〈c〉の行動に符合するものとみられる。

(以上、(一)ないし(四)につき抗告審で立証の予定)

以上のとおりであるから、本件犯行現場の状況及び請求人の自白する行動からみて、当時の鑑識によつて得られた血痕足跡が四個しかなかつたことは、なんら不自然、不合理ではなく、血痕足跡の状況は、請求人の自白に符合する。

3 請求人が八千円を捨てたという点等について

この点について、原審において検察官意見書(昭和五三年一月一二日付九三頁ないし一〇〇頁、同年一二月一一日付八二頁、八三頁)で述べたとおりであるが、更に補充して述べる。

(一) 百円札約八〇枚を丸めてオーバーの襟のポケツトに入れることができたこと及び右金員を連行途中捨てることができた点が解明されたことについては、右意見書ですでに述べたとおりである。

(二) 本件犯行の動機並びに賍金の費消の裏付けの点についても、右意見書で述べたが、これを整理して更に述べる。

(1)  請求人が本件犯行の動機として自白する借金のあつたこと及びその督促を受けていたことについても、十分明らかにされていないと最高裁決定が指摘する点については、小遣銭が欲しく、かつ、飲食店の借金一万円くらいの支払いもしたかつたので、本件犯行を犯した旨(請求人警察官調書・二二分冊一〇九三丁裏、一二〇一丁表、請求人検察官調書・二二分冊一二五四丁裏、一二八九丁裏、一二九〇丁表)の捜査中一貫した請求人の自白があり、その裏付けとして、本件当時請求人が友人らと派手に飲食店街を飲み歩き、多額の小遣銭を必要とする状況にあり、かつ、飲食店などに釣一万二千円の借金があつて、その督促も受けていたことなどは、前記昭和五三年一月一二日付検察官意見書九六頁に記載した西原吉雄証言等の証拠によつて明白であり、本件犯行の動機は、請求人の自白どおりであることが明らかである。

(2)  また、最高裁決定が本件賍金の明確な費消の裏付けがないとする点については、請求人は、本件で奪取した金員のうち五千円を越える金額を費消したことを自白しているが(請求人警察官調書・二二分冊一一一二丁表ないし一一一三丁裏、一一六九丁表ないし一一七四丁表、一二二七丁裏ないし一二二九丁表、請求人検察官調書・二二分冊一二六二丁表裏、請求人第二回手記・二二分冊一〇五三丁表)、その裏付けとして、琴平町の飲食店経営者今井国太郎が、昭和二五年三月中に請求人から千五百円ないし二千円の支払いを受けたことを証言している(今井国太郎証言・二一分冊五八五丁裏ないし五八六丁裏)ほか、同西浦静子が約三百五十円、同中川スエ子が約三百円、同森スミエが約三百円、それぞれ支払いを受けたことを認める趣旨の証言をしている(西浦静子証言・二一分冊六一九丁裏ないし六二〇丁裏、中川スエ子証言・二一分冊六二七丁裏ないし六二九丁裏、森スミエ証言・二一分冊六三二丁裏ないし六三四丁裏)。

右の証言中、今井国太郎の証言以外は、やや明確さを欠くが、それは、証人の記憶が薄れていたためと思われる。しかし、右昭和五三年一月一二日付検察官意見書でも述べたように、当初記憶がないと証言していた右森スミエは、弁護人の反対尋問の際、「警察で被告人にあつたところ、被告人がおばさん暑いのにすまなんだ、おばさん思い出して下さい、あの時、小見山と三人で行つて三百円払つたろうがと言つたので、そう言えば、あんたの目元が小見山さんによう似ているなあと言つた事があつたのを思い出したのです。」(森スミエ証言・二一分冊六三四丁裏)と証言し、右小見山佳和は、昭和二五年三月ころ、右森スミエ(蛇の目飲食店)方で請求人らとともに飲食し、請求人が三、四百円支払つた旨(小見山佳和証言・二一分冊六一三丁裏ないし六一六丁裏)証言している。これらの証言等からみても、請求人の賍金費消についての自白は信用でき、費消についての裏付けはなされているのである。

請求人は、本件当時定職がなく、自宅で農業を手伝う傍ら、土工などをして小遣銭稼ぎをしていたにすぎない。三月中における請求人の手元に入つた金額は合計千円にすぎないので(第四回検面調書・二二分冊一二八六丁表裏、一三〇九丁表裏)、本件犯行後逮捕されるまでの間に請求人が費消した金額は、本件犯行による強奪金がなければ到底、説明がつかない。

ところで、一般に、強窃盗等の事件において、その賍金又は賍品処分の状況について、全面的な自白が得られず、また、自白の裏付けが完全にできない場合であつても、それは必ずしも有罪認定の障害となるものではない。犯人が犯行自体は自白しながら、賍金などの処分の詳細について、完全には自白せず、また、自白をしてもその裏付けが必ずしもすべてにわたつてまでは得られないことは、しばしばあり得ることである。請求人自身も述べているように(請求人警察官調書・二二分冊一一四九丁表裏、請求人第三回手記・二二分冊一〇六七丁表)、特に本件のような重大犯罪においては、いつたん自白したのちも、犯人が将来の否認に備えて、完全には自白をせず、あるいは、自白の中に虚偽を混じえて供述することも、しばしば経験するところである。本件においては、右に述べたように、本件犯行による賍金の一部が充当されたと認める以外に説明のできない金員を請求人が費消していることが明らかであるから、本件犯行をなしたという請求人の自白の裏付けの立証としては、十分というべきである。

(三) 更に、請求人が右の約八千円を保有していたならば、神田村農協強盗傷人事件を犯す動機も薄弱とならざるを得ないという最高裁決定の指摘についても、前記昭和五三年一月一二日付意見書で述べたところであるが、そのほかに、請求人は、約八千円を保有しながら右強盗傷人事件を行つた動機として、借金の支払いをし、服を買つたりなどしたいためであつた旨(請求人第四回手記・二二分冊一〇七六丁表)供述しており、また、父が本気で嫁のことを考えてくれないから、自分の好きな女性を嫁として楽しい夫婦生活を送りたいので、沢山の金が欲しかつた旨の心境を留置場の看守巡査に洩らしていたのであつて(昭和二五年八月二四日付「谷口繁義の言動について」と題する報告書・二一分冊九九七丁表裏)、約八千円を保有していたからといつて、そのことから直ちに前記強盗傷人事件を犯す動機が薄弱であつたとはいえない。

ちなみに、同事件の共犯石井方明は、現に二、三万円の現金を所持していながら請求人とともに同事件を敢行している(石井方明証言・二一分冊四三丁表)ことを併せ考えれば、前記最高裁決定の指摘は全くその根拠がないというべきである。

二 五留意点について

1 黒皮短靴について

この点について、原審において検察官意見書(昭和五三年一月一二日付六〇頁ないし六二頁(一〇行目まで)、一〇一頁)で述べたが、更に述べる。

(一) 黒皮短靴の押収等の経緯をみると、同短靴は、昭和二五年四月一日神田村農協強盗傷人事件発生の直後、当時警察官をしていた請求人の兄谷口勉(同人は、その後同年八月一五日、警察官を退職)が請求人から受領し、その後請求人の長兄谷口武夫が父谷口菊太郎の耕作する畑に埋めて隠匿していた。

ところが、昭和二五年八月五日、本件主任検察官中村正成検事の取調べに対し、右谷口勉が右隠匿事実を供述したので、同検事が右武夫を追及し、同人が提出することを了承し、同日警察官が同人の指示する畑を掘つて捜した結果、同短靴を推肥中より発見、押収したものである(請求人警察官調書・二二分冊一一〇八丁裏表、谷口武夫証言・二一分冊七〇五丁表ないし七一一丁表、一分冊一一三丁裏ないし一一六丁裏、谷口勉証言・一分冊一〇三丁表、「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」と題する書類綴中の昭和二五年八月二六日付三豊地区警察署長から香川県警察隊長宛の「強盗殺人事件検挙について」と題する報告書・九分冊三三一丁裏)。その後、中村検事の指示によつて、公判に提出を必要とする証拠品のみを選別して検察庁に送付させ、右黒皮短靴を含むそれ以外の証拠品合計三一点は、警察から被押収者に還付すべきところを、事件の性質上、特に、別途警察保管させておくこととし、三豊地区警察署にそのまま保管され、公判廷にも証拠物として提出されなかつた。そして、右黒皮短靴は、本件判決確定(昭和三二年二月二日。なお、第一次再審請求は、昭和三三年三月二八日棄却決定確定。)後の昭和三三年一一月一〇日付検察官の処分命令によつて、同年一二月二日、請求人の父谷口菊太郎に還付されており、その還付の直前ころ、庁外保管領置票が作成されている(庁外保管領置票・一分冊三四九丁、還付請書・一分冊三七〇丁表裏、河野一夫報告書・一分冊三六四丁表ないし三六五丁裏、推田千秋報告書・一分冊三六六丁表ないし三六七丁表、清水義夫報告書・一分冊三六八丁表ないし三六九丁裏)。

(抗告審で更に立証の予定)

(二)(1)  右黒皮短靴について、右のような取扱いがなされた理由は、同短靴は相当長期間畑に埋められており、しかも梅雨期にかかつていたため、腐食がはなはだしく、靴全体がふくれあがつて著しく変形していたので、国警香川県本部鑑識課においても、それと現場に遺留された血痕足跡との対象が不可能であり、かつ、同鑑識課及び岡山大学法医学教室遠藤中節教授の鑑定によつても、血痕の検出ができなかつたからであつた(宮脇豊上申書・三分冊六八七丁表ないし六九一丁表、吉田正勝報告書・三分冊六八三丁表裏、田中晟証言・二一分冊四四六丁表ないし四四八丁表、遠藤鑑定書・二〇分冊一四九丁裏、一五〇丁表、村尾順一報告書・三分冊六九二丁裏、六九三丁表)。中村検事としては、右のような理由から、同短靴は、公訴事実立証の証拠価値に乏しいので、公判廷提出を必要としないが、公判の推移いかんによつては、証拠品として提出を必要とし、あるいは提出を相当とする場合の生じることも考慮し、直ちに還付する措置を得らないで、警察保管としたものと認められるが(宮脇豊証言・三分冊九一五丁表)、その後の公判においても、同短靴を証拠とする必要は生じなかつたのである(抗告審で更に立証の予定)。

(2)  なお、付言するに、本件当時の足跡の鑑識技術は、現在からみると著しく未熟であつたが、昭和二八年ころから全国に先がけて国警香川県本部鑑識課が、履物の種類、型及びこれによつて印象される足跡の形状とその検出方法、並びに両者の照合の方法等について特別の研究を行い、漸次、足跡の証拠としての重要性とその利用価値が認識されるようになつた。その研究の成果は、昭和三三年一月一四日付香川県警察本部長の「足紋の採取及び履物類の照合について」という通達によつて、具体的に実施の段階に移された(抗告審で立証の予定)。

(三) 右のように、黒皮短靴を警察保管扱いとしたので、他の警察保管証拠品三〇点とともに、当時の検察庁の証拠品領置票(一分冊一九四丁ないし一九七丁)には、記載されていない。しかし、同短靴などを警察が押収した時の押収(領置)調書は、当時作成されていたはずであるが、現存しない(神田村農協強盗傷人事件記録とともに、廃棄されたものと推定される。)。右のような警察保管という取扱いは、庁外保管(刑訴法二二二条、一二一条一項)の一種としてなされているものであるが、昭和二四年九月二四日付検事総長指示「司法警察職員捜査書類様式例」の様式四五号「証拠金品総目録」に、記載上の注意として、「一押収物のうち検察官に保管転換したもののみを記載すること。二符号は、保管転換した押収物の整理番号である。」とされており(本件後改められた現行の同様式例では、「この目録は、検察官送致、保管委託(警察署保管を含む。)、返還付の順序に記載し、符号は一連の整理番号とする。ただし、保管委託及び仮還付のものについては、その旨、警察備考欄に記載する。」と改められている。)、しかも、警察保管を含む庁外保管の証拠品については、一部の検察庁を除き、検察庁の領置票には記載されていなかつたのである。高松地検丸亀支部においても、同様の取扱いをしていた。その後昭和二八年六月一日新しく定められた法務大臣訓令「証拠品事務規程」によつて司法警察職員が検察官に送付した証拠品のうち保管替をしていないものについては、庁外保管領置票が作成されている。本件黒皮短靴を還付することとした昭和三三年には、右証拠品事務規程によつて、前述のとおり庁外保管領置票が作成され、書類上も、証拠品としての手続関係が明確になつている(抗告審で立証の予定)。

(四) 右のとおりであるから、黒皮短靴について、最高裁決定において指摘された事項のうち、その押収関係とこれが検察庁に送付されず、公判廷に提出されなかつた理由は、明らかにされた。確かに、同決定の指摘するとおり、たとえ前述のような肯認し得る理由により足跡との照合及び血痕の検出ができなかつたとしても、これを証拠品として検察庁に送付させ、右のことを明らかにして、公判に検出するのが、当時の検察官の態度として、より妥当であつたのではなかつたかとはいえても、以上述べたところにより、黒皮短靴について最高裁決定の指摘する不審は、すべて解消された。

2 遺留リユツクサツクについて

右リユツクサツクは、昭和五三年一月一二日付検察官意見書一〇一頁、一〇二頁で述べたとおり、本件の以前に森下直秀の遺留していたものであつて、原決定も認めるように、不審点はすでに解消されている。

3 被害者方母屋西南隅前のズツク靴足跡について

この点については、昭和五三年一月一二日付検察官意見書一〇二頁、一〇三頁でも述べているが、昭和二五年三月一日付司法警察員作成の検証調書(二〇分冊七一丁表)によると、このズツク靴足跡は被害者方母屋西南隅前に印象されており、その位置が右2記載の遺留リユツクサツクの場所に近接していることから、むしろ、闇米ブローカーであつた被害者方に出入りの闇米取引関係者の足跡とみられる可能性が強い。

この足跡について、捜査本部は、当初、闇米取引関係者による犯行の疑いをもち捜査を進めたのであるが、聞き込みなど捜査の結果、詳細リストアツプした闇米取引関係者は、いずれも本件と関係のないことが明らかとなつたものである(「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」と題する書類綴中の昭和二五年九月一六日付香川県警察隊長名の検挙状況報告書原稿本文一二項の1及び別表第一号表・九分冊七五丁表ないし七六丁表、九八丁ないし一〇三丁)。

その上、右足跡は、裏面に大型の模様のあるズツク靴跡であるのに、犯行現場四畳の間の血痕足跡は、畳の表面の筋目によつて模様ができてはいるが、裏面が無模様の靴で印象されたとみられ、両者は全く異種のもので同一性を認めがたいので(村尾順一鑑定書・三分冊六九四丁表ないし六九五丁裏、村尾順一報告書・三分冊七〇六丁表ないし七一四丁、抗告審で更に立証の予定)、この足跡についての不審点は、すでに解明されている。

4 国防色ズボンの押収手続について

この点については、原審において検察官意見書(昭和五三年一月一二日付一〇三頁、一一三頁ないし一一五頁、なお、再一審における昭和四七年八月一〇日付検察官意見書・三分冊一〇八三丁表ないし一〇八五丁裏参照)で述べているが、更に述べる。

(一) 最高裁決定は、捜査官による国防色ズボン(証二〇号)すりかえの事実は到底、認められないと請求人の主張を排斥しながら、「〈1〉宮脇警部補作成の領置調書によると、昭和二五年八月一日国防色ズボンが領置されているが、請求人の同月二日付の右宮脇に対する供述調書によると、当日、すなわち同月二日にこれが領置されたとの記載がある。原決定は同調書の日付は八月一日の誤記であるというのであるが、誤記として片づけてしまつてよいかは問題である。なお、〈2〉右ズボンと同じ経過をたどつた他の証拠物には、領置調書に、「裁判所提出」と記載されているのに、右ズボンについては、同調書上その旨の記載がなく、単に「署保管鑑識中」とあるのみである。また、〈3〉右ズボンについては、右領置調書中、品目の名称変更及び証拠番号の改訂にともなう「改訂証何号」の記載も欠落している。検察事務官作成の報告書によると、それ(〈3〉)は受理手続の際書き落したという。しかし、何故前記(〈2〉及び〈3〉)のような扱いになつているかは、合理的説明に苦しむ。また、〈4〉確定判決の公判審理における検察官の冒頭陳述中の「右犯行が被告人の所為である点については、当時における被告人の着衣により立証する。」という部分では、証一八号(国防色上衣)、同一九号(軍隊用袴下)、同二一号(国防色綾織軍服上衣)と述べられているだけで、証一九号と続き番号の、請求人が犯人とされている本件のいわば唯一ともいうべき重要な物的証拠である国防色ズボン(証二〇号)が右の冒頭陳述から欠落していることも不可解である。」という点を問題として指摘している。

最高裁決定が、前述のとおり捜査官が請求人主張のようにすりかえを行つた事実はないと認定しながら、なおも、右のような押収手続における諸問題点を指摘し留意をうながしているのは、押収手続に右のような問題点があるところから、国防色ズボンは、請求人の強盗傷人事件の証拠品であつたものを請求人に還付し、これを再提出させ、本件で再度領置して裁判所へ提出したものであると検察官が主張するものの、その間のズボンの同一性について問題けないかとの不審を提示しているものともみられる。

(二) しかしながら、最高裁決定が、指摘する〈1〉の点については、昭和五三年一月一二日付検察官意見書一一三頁(10、(一))ないし一一四頁及び再一審における昭和四七年八月一〇日付検察官意見書で述べたとおりであつて、単なる日付けの誤記と認められる。

(1)  そこで、まず、右ズボンの同一性を明確にするため、国防色ズボン(証二〇号)の押収手続の経過をたどつて検討することとする。

請求人の前記八月二日付宮脇警部補に対する供述調書には、「私が当夜着て参りました服装で只今持つて居るものは、黒のゴムバンドと木綿長袖シヤツでありますので、提出して置きます。この時司法警察員は、提出に係る二品を領置し、証第四四号、第四三号とする旨告げた。」とあり(二二分冊一一八八丁表)、また、「只今戻して貰つた(還付品)一軍手一足、二鳥打帽子一、三国防色綾織夏服上衣一枚、四″下服一枚は、私が当夜着ていた上服もありますので、全部提出して置きます。この時、司法警察員は、証第四五号、″四八″、″四七″、″四六″として領置する旨告げた。」とある(二二分冊一一八八丁裏、一一八九丁表)。

右のように、右供述調書では、拘束中の請求人の所持品の任意提出と裁判所からの還付品の任意提出とを区分して記載しており、国防色下服については、宮脇警部補が国防色綾織上衣ほか二点とともに、強盗傷人事件の証拠品の還付手続を行い、即時、再提出を受けたものであることが明らかである。したがつて、右国防色下服が、強盗傷人事件の証拠品であつたものと同一であることは、疑問の余地がない。

(2)  ところで、右強盗傷人事件では、請求人から「国防色上衣」と「下衣」とが一対で「国防色上衣及び下」として領置されて公判に提出されていたが、前述した本件の証拠品としての再領置の際には、一個の証拠品としての領置手続がとられず、領置調書では、「領置番号四七・国防色綾織夏服」と「同四六・国防色下服」とに分けて領置している。この点は、本件証拠品として再提出の時点において、請求人は、本件犯行時、国防色綾織夏服上衣を着用していたことは供述していたが、国防色下服を着用していたことをいまだ供述しておらず、前述したように、請求人は、右再提出の際、宮脇警部補に対し、「当時着ていた上服もありますので、全部提出しておきます。」と述べていたので、同警部補は、請求人が本件犯行時着用していた「国防色上衣」とそうでないという「下衣」とを一対として領置するのは相当でないと考え、「国防色綾織夏服」と「国防色下服」とをそれぞれ別個に領置したのであり、その措置は妥当と考えられる(抗告審で立証の予定)。

(3)  更に、右警察の「証四六号国防色下服」は、昭和二五年八月二三日付の検察庁領置票には、「符二〇号国防色ズボン」と記載されているが、これは証拠品の整理番号の変更及び品名の明確化の措置である。証拠品の整理番号の変更は、検察庁における証拠品の整理番号と警察におけるそれとが異なることになる場合(前記第二、二、1、(三)で述べたとおり、検察庁の符号番号は、警察から検察庁に保管替のあつた証拠品についてのみ付するので、庁外保管証拠品のある場合など)に、事務上必要とされる措置であり、また、証拠品の品名は物の特定上重要であるが、警察の付した品名呼称が物の特定などの観点から適切でない場合に、検察庁においてそれを特定化、明確化するのであり、これまた一般に行われている事務上の措置である。他の証拠品においても同様のことがいえるが、右国防色ズボンには、警察官の付した証四六号の番号札(宮脇警部補の筆跡)が現在もそのまま、つけられているのである(電話録取書・一分冊一九三丁表、抗告審で更に立証の予定)。

(三) 次に、最高裁決定が指摘する〈3〉の点であるが、警察の領置調書の当該証拠品(証四六号国防色下服)の行の上部に「改訂証二〇号」と入れておけば、両者の同一性について最高裁決定の指摘するようなことはなかつたのであるが、右(二)で述べたとおり神田村農協強盗傷人事件において、一対として警察が領置した「国防色上衣及び下」、更に、これに引き続き、本件において警察が再領置した「証四七号国防色綾織夏服」と「証四六号国防色下服」とに対応して、検察庁における証拠品の基本台帳というべき領置票に、「符二〇号国防色ズボン」、「符二一号国防色綾織夏服」と連続して記載されている。このように領置票の記載自体が正しくなされていることからみても、警察領置調書上に「改訂証二〇号」という記載を脱落したことは、単なる事務上のミスにすぎないことが明白であつて(津田博報告書・一分冊一九八丁表ないし一九九丁表、抗告審で更に立証の予定)、このためズボンがすりかわつていてその同一性について疑いがあるのでないかと考える余地は全くない。

(四) 最高裁決定が指摘する〈2〉の点は、裁判確定後、記録が裁判所から検察庁に返還されたとき、証拠品係事務官において、証拠品の処分洩れを防止するため、裁判所提出済の証拠品については、領置調書にその旨記入する事務に関する問題である。

本件においては、昭和三二年二月二日裁判が確定した直後、高松地検丸亀支部証拠品係事務官が右事務を行つたのであるが、国防色ズボン(証二〇号)については、右(三)で述べたように、領置調書に改訂証番号が脱落していたので、事務官は、警察から保管替のなかつた物と考えて記入をしなかつたのではないかと考えられる。しかし、領置票には、国防色ズボン(証二〇号)について、他の証拠品とともに、昭和二五年一一月六日裁判所へ提出したことを示す「昭和二五年一一月六日送付済」と記入されている(領置票・一分冊一九六丁)。この領置票への記入は、裁判所から交付を受けた裁判所作成の押収目録によつて、その都度行うものであり、現に昭和二五年一一月六日、証二〇号は、他の証拠品とともに、裁判所へ提出されているのであるから、右領置調書上の「裁判所提出」の記載の脱落については、疑問となることはない。

(抗告審で更に立証の予定)

(五) 最後に、最高裁決定が指摘する〈4〉の点、すなわち検察官の冒頭陳述中の被告人の着衣の部分から国防色ズボン(証二〇号)の記載が欠落している点については、昭和五三年一月一二日付検察官意見書一一五頁で述べたとおりであるが、検察官は、本件公判の冒頭から一貫して、右国防色ズボン(証二〇号)を請求人が犯行時着用していた事実を強く主張しているのであつて、このこと自体からみても、右のような記載欠落があつたからといつて、ズボンの同一性について問題があるのではないかなどと疑う余地は全く存しないのである。

以上述べたところにより、国防色ズボンの押収手続における留意点として最高裁決定が指摘する事柄は、すべて同決定も判示するように、捜査官がズボンのすりかえを画策し、実行したものでないことはもとより、ズボンの同一性に疑念を生ぜしめるような事柄でないことが明らかとなり、この点についての不審は解消された。

5 自白の真実性の吟味にたえ得る秘密性をもつ具体的事実について

このうち、いわゆる二度突きの自白の点については、後記第四で述べることとし、ここでは、原審における昭和五三年一二月一一日付検察官意見書八五頁ないし九二頁で述べた、国防色ズボン(証二〇号)の右脚前面に血痕が付着していたという犯人しか知り得ない秘密性をもつ具体的事実を、捜査官が知る前に請求人が自白したことについて、更に補充して述べる。

(一) 右検察官意見書の箇所で述べた要旨は、国防色ズボン(証二〇号)の右脚前面の血痕付着の事実を捜査官が知つたのは昭和二五年八月七日であるのに、それより二日前の八月五日に、請求人が捜査官に対し、その点を図面まで書いて自白しているというものである。

右の点について、原決定は、「昭和二五年八月二六日付「強盗殺人事件検挙について」と題する報告書(検察官から当審において提出された「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」と題する書類綴中のもの)は、これに対応するとみるべき請求人の供述内容や当時の捜査経過にも照らし、これをもつて自白中に秘密性を持つ具体的事実の供述があるとするにはかなりの疑問がある。」というにとどまり、請求人の供述内容、当時の捜査経過、昭和二五年八月二六日付「強盗殺人事件検挙について」と題する報告書を対比総合して、いかなる理由で、検察官の右主張にかなりの疑問があるというのか、明らかでない。

(二) そこで、右自白がなされス当時の捜査の経過及び請求人の供述内容について、更に検討する。

(1)  国防色ズボン(証二〇号)の押収手続については、前記第二、二、4、(二)、(1) で述べたとおり、同ズボンは、請求人の犯した神田村農協強盗傷人事件の証拠品として領置され、高松地裁丸亀支部に提出、領置されたが、同事件の有罪判決が確定した昭和二五年六月三〇日ころ、請求人の父谷口菊太郎らが裁判所へ同ズボンを含む請求人の証拠品の返還を執ように求めてきた。裁判所職員は、当時還付の事務手続に着手していない段階であつたが、右谷口菊太郎らの異例の行動に不審を抱き、高松地検丸亀支部中村検事にその旨連絡し、同検事から請求人の取調べを行つていた宮脇警部補に通報した。

同警部補は、右の状況から将来これら証拠品のなかに本件の証拠として必要となるものがあるかも知れないと思い、その散いつを防ぐため、裁判所職員と交渉した上、六月三〇日以降の日に、右強盗傷人事件の証拠品である国防色ズボン(証二〇号)、国防色綾織夏服(証二一号)などを裁判所から預り、高瀬警部補派出所で保管していた。

(電話録取書・一分冊一八八丁表裏、宮脇豊報告書・一分冊一九〇丁表ないし一九一丁表、抗告審で更に立証の予定)

(2)  請求人に対する当時の取調べの状況については、後記第四、一、3で述べるとおりであるが、その後、請求人は、昭和二五年七月二六日付宮脇警部補に対する自白調書において、「午前六時半頃起きて見ると、黒のサージズボン(海軍の下ズボン)にも「スネ」のあたりに血がついていたので、親に知られぬ中に、石けんで泉の端で洗いました。そして上服と一緒に干しました。」旨(第一回警察官調書・二二分冊一一〇六丁裏ないし一一〇七丁裏)、次いで七月二九日付宮脇警部補に対する自白調書において、「ズボンは紺色毛織の古いものであつた。夜が明けて枕元に脱いであつたズボンの膝の当りに血がついていたので、その処丈けつまみ洗をしました。」旨(第五回警察官調書・二二分冊一一五〇丁裏、一一六八丁裏)各供述している。

(3)  そこで、宮脇警部補は、請求人に対し本件逮捕状を請求するについて、中村検事に協議したところ、同意を得、八月一日、その逮捕状の発付を得て同日逮捕、また、右協議の際、同検事は宮脇警部補に対し、神田村農協強盗傷人事件の証拠品であつた国防色ズボン(証二〇号)その他について、血痕付着の有無等の鑑定を求めるよう指示した。そこで宮脇警部補は、前記第二、二、4、(二)、(1) で述べたとおり、国防色ズボン(証二〇号)などの神田村農協強盗傷人事件の証拠品を、急拠、請求人に還付し、即時、請求人から本件の証拠品として任意提出を受け領置した。そして、このうち国防色ズボン(証二〇号)及び国防色綾織夏服(証二一号)について、同時に領置した請求人の他の衣類などとともに、県本部鑑識課を介し、八月一日、岡山大学法医学教室遠藤中節教授に血痕鑑定を依頼した(抗告審で更に立証の予定)。

(4)  ところが、その後の八月五日、請求人は宮脇警部補に対し、本件犯行時着用していたズボンの血痕付着部位について、「朝六時半頃に起きて見たら、(中略)下服は裾の方に少しついていたので、家の者に知られぬ間に井戸端で石鹸つけてよく洗いました。(中略)黒木綿下服は、一番下の裾の付近に(右股の)点々と三ケ所位ついて居りました。」と供述(第七回警察官調書・二二分冊一二二四丁表裏、一二三一丁表裏)した上、その位置を特定する図面(同供述調書添付)を作成し、「香川を殺した時に血のついた物のは次のとうりです」と表題し、「二、下ズボン黒色の(モメン)」の箇所に「右スソのあたりに点点小さいのが三ツ位」と記載するとともに、ズボンの略図を書き、その右脚下半部に三個の血痕付着部を図示している(第七回警察官調書・二二分冊一二三八丁裏、一二三九丁表、一二四一丁)。なお、同じ日付の同警部補に対する供述調書で、請求人は、犯行時着用していたズボンは、従来述べていたもの(請求人は、右(2) で述べた紺色毛織の古いズボンという供述に続いて、八月二日付第一回手記で、黒サージズボンと供述を変更している・二二分冊一〇四三丁表)ではなく、現在着用している黒木綿ズボンであると供述を変更しているのである(第八回警察官調書・二二分冊一二四三丁裏、一二四四丁表)。

(5)  即日、宮脇警部補は、請求人から、請求人がその時現に着用していた右供述の黒木綿ズボンの任意提出を受けて領置し(第八回警察官調書・二二分冊一二四四丁裏、領置調書・二二分冊一二四九丁表)、直ちに前同様の鑑定を岡山大学遠藤教授に依頼するため、県本部鑑識課へ送付した。同領置調書備考欄に「鑑識中」とあるのは、県本部鑑識課へ送付したという意味である。

ところが、同日(八月五日)は土曜日であつたため、県本部鑑識課から岡山大学法医学教室へ連絡がとれず、八月七日(月曜日)、右黒木綿ズボンの鑑定依頼の件で、同鑑識課から同教室へ電話連絡した際、同教室から、八月一日鑑定依頼のあつた国防色ズボン(証二〇号)に人血痕が付着している旨の通報があつた(前記昭和二五年八月二六日付「強盗殺人事件検挙について」と題する報告書九枚目裏から一〇枚目表)ので、右黒木綿ズボンの鑑定依頼は一時見合せることとした。

その後、八月一一日、請求人は、中村検事に対し、犯行時着用していたズボンは国防色ズボン(証二〇号)であり、黒木綿ズボンは、請求人が強盗傷人事件で留置中父谷口菊太郎が買つて差入れてくれたものである旨供述し(第二回検察官調書・二二分冊一二六七丁裏)、右黒木綿ズボンは、本件と関係のないことが明白となつたので、結局、鑑定に付されなかつた。

(抗告審で更に立証の予定)

(三)(1)  右のとおりの経過で、神田村農協強盗傷人事件の証拠品として裁判所に領置されていた国防色ズボン(証二〇号)などを一時、高瀬警部補派出所で保管した上、本件の証拠品として領置替した宮脇警部補が、八月一日、これらについて岡山大学に血痕鑑定を依頼したのは、自己の発案ではなく、中村検事の指示によつたものであるが、宮脇警部補としては、国防色ズボン(証二〇号)については、当時、請求人は本件犯行時着用していたとは自白していなかつたが、念のため右鑑定依頼をしたものであることが明らかである。

本件犯行時着用していたズボンに関する請求人の宮脇警部補に対する供述は、前述のとおり、七月二六日付調書では黒サージ、七月二九日付調書では紺色毛織の古いもの、八月二日付手記では黒サージ、八月五日付調書では黒木綿と変遷しているが、いずれも黒、紺系統色であり、国防色ズボンであることは全く供述していなかつた。前述したように、宮脇警部補は、八月五日、請求人が現に着用していた黒木綿ズボンを領置した上、岡山大学へ血痕鑑定を依頼するため、これを県本部鑑識課へ送付しているくらいである。

右のことからみても、国防色ズボン(証二〇号)を請求人が本件犯行時着用していたということは、宮脇警部補その他捜査官の一切知るところではなかつた。

(2)  請求人としては、犯行日の早朝起きて自宅の井戸で石けんを使つて洗濯したとはいえ、その直前に、犯行時着用していた国防色ズボン(証二〇号)に血痕が付着していた事実を見て知つていた以上、七月二六日本件犯行を自白したのちも右国防色ズボン、(証二〇号)をもつぱら追求されて身動きできなくなるのを防ぐため、これを前述のように黒、紺系統色のズボンとすりかえて供述し、しかも、何回もそのズボンの種類について供述を変更しているものと考えられる。いつたん自白した後も、供述の一部について、こういう虚偽を混じえての自白をすることは、捜査上、よく経験するところである。

(四) 八月七日、前述のように黒木綿ズボンの鑑定依頼の件で岡山大学に連絡した際、同大学から、八月一日鑑定依頼のあつた国防色ズボン(証二〇号)に人血痕が付着している旨の通報があつたこと、それまで捜査官は、同ズボンの赤色のやや太い線で丸く囲んだ汚斑の箇所一九か所(遠藤鑑定、古畑第一鑑定の結果、血痕でないと鑑定されたもの)に鑑定人の留意をうながしていたものの、遠藤鑑定、古畑第一鑑定で人血痕と鑑定された同ズボンの右脚前面の箇所に血痕が付着していることは、全く知らなかつたこと、並びにこれらの経緯及びこれに関する「強盗殺人事件検挙について」と題する報告書の記載、遠藤鑑定、古畑第一鑑定の内容については、前記検察官意見書の八七頁(二行目)ないし九〇頁(一〇行目)で述べたとおりである。右「強盗殺人事件検挙について」と題する報告書(「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」(前記検察官意見書では、「財田村強盗殺人事件捜査書類(二)」と表示している。)中のもの)は、原決定もいうとおり、当時の捜査状況の径過を伝える書類として、信用性のかなり高いものと認められる。

(五) 前記検察官意見書においては、八月七日より二月前の八月五日に、請求人は、犯行時着用していたズボンの血痕付着箇所について、犯人しか知り得ない秘密性をもつ自白をしたと指摘したか、今回詳しく述べた捜査経過により、八月五日のみならず、それより前で、国防色ズボン(証二〇号)などについて岡山大学に鑑定を依頼した八月一日よりも以前の七月二六日及び七月二九日の各宮脇警部補に対する供述調書においても、すでにほぼ同旨の自白をしていることが明らかである。

これらの自白の内容は、前述したとおりであるが、ズボンの血痕付着箇所について、おおむね一貫している。そして、その自白、殊にもつとも詳細に供述し、図面まで作成添付している八月五日付の自白の血痕付着箇所は、遠藤鑑定、古畑第一鑑定の血痕付着箇所(その詳細は、後記第三、一、1、(二)、(1) 、イに記載しており、それにより作成した別添国防色ズボンの模型の血痕1、2、イ、ロ)とほぼ同一の場所である。

以上述べたところにより、本件犯行時着用していたズボンの右脚前面に血痕が付着していたとの請求人の自白は、捜査官がいまだ知らないことが明らかな、犯人しか知り得ない秘密性をもつ事実についての供述であることが明らかであり、それは、自白の真実性の吟味にたえ得る秘密性をもつ具体的事実についての供述といわねばならない。

第三原決定が新証拠としている船尾血痕鑑定、岡嶋証言について

これらの証拠は、刑訴法四三五条六号にいう無罪を言い渡すべき明らかな証拠ではない。

一 国防色ズボン(証二〇号)に付着する血痕の血液型の判定に関する各古畑鑑定の信用性について

右血液型判定に関する古畑第一鑑定及び古畑第二鑑定の方法及び結果は適正妥当であり、原決定が新証拠とする船尾血痕鑑定及び岡嶋証言によつて、古畑第一鑑定の信用性が損なわれるものでなく、右新証拠には明白性がない。

原決定は、犯行当時請求人が着用していたとされる国防色ズボン(証二〇号)に被害者の血液型と同一のO型の血痕が付着していたとする古畑第一鑑定及び古畑第二鑑定について、船尾血痕鑑定及び岡嶋証言の一部を引用しつつ、その正確性、信用性にきわめて重大な疑問を抱かざるを得ないことになるから、右船尾血痕鑑定及び岡嶋証言は、刑訴法四三五条六号所定の新規、かつ、明白な証拠にあたるとする。すなわち、古畑第一鑑定については、(一)対象物の血痕の量が微量であるため確実な判定ができなかつたはずであること、(二)人血試験を血痕付着箇所全部について行わずその一部についてのみ行つた点で不正確であるばかりでなく、これら血痕を個々に検査せずに全部集めて血液型の検査をした点に誤りがあること、(三)当時この種検査に未習熟の岡嶋特研生において鑑定がなされたため正確を期するうえで危険のあつたことを挙げ、更に古畑第二鑑定については、(一)その前に実施された遠藤鑑定、古畑第一鑑定のときも、血痕量が少ないために血液型の検査ができなかつたり、あるいは人血試験を一部省略したり、数個の血痕を集めて検査したりするくらいであつたのであるから、その当時見残しの付着血痕があつてそれが古畑第二鑑定の際に初めて発見されたと考えるのは不自然、不合理であること、(二)古畑第二鑑定のときの付着血痕は淡色褐色であつたとされているが、付着血痕は陳旧になるにつれて赤味が消えるはずであるから、第一鑑定時よりも二〇年も経てからのものであるのに淡赤褐色であつたというのは不自然であること、(三)したがつて、古畑第一鑑定のときの付着血痕と古畑第二鑑定のときの付着血痕とは同一由来のものとは認めがたく、古畑第二鑑定の被検血痕は、古畑第一鑑定以後に付着したものと考えられ、たとえば被害者の衣類と一緒に保存されたりしたため移着した可能性もあることを指摘して、古畑第一及び第二鑑定の正確性、信用性に疑問があるとするのである。

しかしながら、古畑第一鑑定の方法及び結果が適正妥当であることは、三上血痕鑑定、岡嶋証言等によつてきわめて明らかであり、古畑第一鑑定の結果、右ズボンに付着していた血痕の血液型と被害者の血液型とが一致することは、明白である。古畑第一鑑定を攻撃する船尾血痕鑑定は、後述するように、それ自体信用性がなく、また、岡嶋証言も、その全趣旨に徴し、原決定がいうように古畑第一鑑定の信用性を損なうものではないのであつて、右船尾血痕鑑定を他の証拠と総合判断するとき、到底確定判決を動揺させるに足りる明白性があるとはいえない。

また、古畑第一鑑定の結果の正当性を裏付けるに足る古畑第二鑑定において、その際、右国防色ズボンに付着していた血痕が古畑第一鑑定以後に付着したものでないことは、池本証言、三上血痕鑑定等によつて明らかであり、疑う余地がない。

以下、原決定が述べる理由について反論する。

1 古畑第一鑑定について

(一) 血痕量が微量であるため確実な判定ができなかつたとする点について

原決定は

血液型判定に必要な血痕量について、船尾血痕鑑定は、最低二ないし三ミリグラムが必要でそれ以下では正確な判定はできないといい、三上血痕鑑定は、それ以下でも判定可能という。また、岡嶋証言は、最低三ミリグラム位は必要だといつても、それだけなければ絶対に不可能という訳ではなく、厳密な境界線は出しにくく、ともかく検査して反応をみた上でなければ何ともいえないと述べている。なるほど血痕量が少ない場合、抗血清を順次稀釈したものを加えて行くことによつて、原理的には微量血痕でも血液型判定は可能であるといい得るし、どれだけの量があれば可能であるか厳密な限界線を画することはできないであろう。三上血痕鑑定がいうように、検査者の習熟度によつても左右されるであろう。しかし、そうだとしても、血痕量があまりにも微量で、それに加える抗血清を順次稀釈した場合、吸収反応が微弱となつて識別困難から更に不能となるにつれて、検査者の主観(習熟度によつても影響される。)によつて判定が左右され、あるいは判定を誤るという面が増大し、客観的に乏しくなることも否定できない。また、微量血痕の場合、検査の機会は一回だけしか与えられない事も併せ考えると、客観性を有する確実な判定を得るには、自ずからなる限界があると考えられる。この点について、岡崎証言も、確実に判定するためには、その位の量(二ないし三ミリグラム)が欲しいということになる旨述べ(同証言速記録三七丁裏(一七分冊七五七の九五六丁裏))、必ずしも右に述べたことを否定していない。

また、三上血痕鑑定は、〇・一二ミリグラムの血痕量で血液型の判定ができたという学会報告例があるというが、同証人は、自ら追試した訳でもなく(同証言速記録一二四丁裏(一九分冊七五七の一七二四丁裏))、報告例があるというだけでそれを信用できる訳ではない。同証人が自らの経験でも一ミリグラムの血痕量で血液型の判定は可能である旨、自身の論文を引用して証言する部分も、弁護人らが反証として提出した同論文(「乾血における血液型判定上の錯誤について」態本医学会雑誌第一一巻七号(昭和一〇年)所載)によれば、同証人の多数の実験例中に、一ミリグラムの血痕量で血液型の判定をした例も一、二あげられているけれども、その例は一箇月を経ない新鮮な乾血によるものであり、(本件は、もし請求人が犯人であるとすれば、血痕付着後古畑第一鑑定までに一年余を経ている。)、また、同論文には、結論として、確実な成績を求めるとすれば、新しい材料(乾燥後ほぼ一年以内のものを新しい材料、それ以上のものを古い材料として)で二ミリグラム、又はそれ以下の微量でも十分な成績を求められないことはないが、通常新しい材料で五ミリグラム、古い材料で二〇ミリグラム、更に陳旧な材料ならば一〇〇ミリグラムを要すると信ずる旨記載しているのであつて、一ミリグラム程度の血痕量で確実な判定ができる訳でもない。

そうすると、血液型の判定は、材料の陳旧度や検査者の習熟度などの条件に左右されることもあり、必ずしも二ないし三ミリグラム以上の血液量がないと不可能であるとまではいえないにせよ、前記のように血液型の異なる血液がまじつた場合考えられる問題点にも留意し、確実な判定結果を得るには、通常二ないし三ミリグラムの血痕量を必要とするというべきであり、それ以下の血液量では、微量になるにつれ客観性の乏しいものとなり、刑事裁判の証拠としては、一般的に、証明力に疑いを生じ、これを採用することにちゆうちよを感じる。ところで、古畑第一鑑定時に国防色ズボンに付着していたけしの実大三個及び半米粒大一個の斑痕の血痕量とはどの程度のものかを検討するに、船尾血痕鑑定によるとけしの実大というのは一×〇・五ないし〇・七ミリメートル大位であるが、実験的に作成したけしの実大血粉の血痕量に対し、着衣付着の場合は、その半分位と大ざつぱにみられる(実際はそれ以下と考えられる。)ので、〇・一ミリグラム又はそれを下まわるものと一応推測が可能であり、実験的に白木綿の布に飛沫状に血液を付着させ作成した血痕の大きさと、血痕量の計測結果から計算すれば、一〇×五ミリメートル大の矩形の血痕量は二・五ミリグラムであるから、けしの実大の血痕量というのはそのおよそ一〇〇分の一となるという。これは、計算上〇・〇二五ミリグラム程度である。また、船尾血痕鑑定によると、半米粒大というのは、米粒大が五×三ミリメートル大位であるので、その半分となるが、実験的に作成した半米粒大血粉の血痕量に対し、着衣付着の場合は、その半分位と大ざつぱにみられる(実際はそれ以下と考えられる。)ので、一ミリグラム又はそれを下まわるものと一応推測が可能であり、実験的に白木綿の布に飛沫状に血液を付着させ作成した直径五ミリメートル大の円形の血痕量は一ミリグラムであるから、半米粒大は直径三ミリメートル大の円形に近いものとなるという。したがつて、その血痕量は計算上〇・三六ミリグラム程度となる。

そうすると、けしの実大三個及び半米粒大一個の斑痕の血痕量は、右を合計して、計算上、〇・四三五ミリグラム程度となり、そのうち一個ないし二個の斑痕について人血試験を実施したとすれば、これによつて一個の斑痕につき、ほぼけしの実大一個の血痕量が消費されると認められるので(この点については、船尾血痕鑑定のみならず、三上血痕証言や岡嶋証言も否定していない。三上血痕証言速記録二三丁表、三〇丁表、八四丁裏(一九分冊七五七の一六二三丁表、一六三〇丁裏、一六八四丁裏)、岡嶋証言同二二丁裏(一七分冊七五七の九四一丁裏)等)、残存血痕量は、〇・四三五ミリグラム程度から〇・〇二五ミリグラムないし〇・〇五ミリグラムを差引いたものとなる。したがつて、けしの実大三個及び半米粒大一個の着衣付着斑痕の合計血痕量(残存血痕量のことと解される。)は、およそ〇・四ミリグラム程度となり、着衣に対する付着状況によつて多少の増減がみられるにしても、いずれにせよ一ミリグラムをはるかに下まわるきわめて微量のものであると認められる。

旨、判示する。

(1) ア 血液型検査は、血痕量が多いほど容易であることはいうまでもなく、古畑第一鑑定の当時、凝集素吸収試験法によるABO式血液型判定には三ミリグラム位の血痕量を必要とすると一般にいわれていたようである。この数値は、血液型検査の一応の知識、技術を有する者が行う場合に必要とされる数量である(三上芳雄証言・一九分冊七五七の一六八七丁裏)。

しかし、犯罪捜査においては、それ以下の微量の血痕しか得られない場合が少なくなく、法医学界においては、早くから微量の血痕によつて血液型を判定する方法について、研究、工夫が積み重ねられ、すでに昭和五年北海道帝国大学医学部法医学教室久保忠夫医学博士ほか一名によつて〇・一二ミリグラムの血痕量から血液型判定が可能であるとされている(「余等の血液個人鑑別法」″医事公論″第九四〇号(昭和五年))。その後も年を追つて微量血痕の血液型判定の研究が進み、これに関する文献として、千葉医科大学法医学教室友永得郎による一滴稀釈の方法(一滴の量で倍数稀釈を行う。″犯罪学雑誌″一二巻(昭和一三年)七七五頁)、金沢大学医学部法医学教室安田利治による低力価抗血清使用による方法(「微量血痕の血液型検査に就いて」(昭和二六年九月二九日第九回十全医学会集会で発表)″法医・鑑識竝びに社会医学雑誌″第一巻第一号(昭和二八年)二四頁)等がある。最近では、古畑第二鑑定で用いられた解離試験法等の開発によつて、超微量の血痕によつても確実にABO式血液型を判定することが可能となつた。

もつとも、昭和二六年の古畑第一鑑定の当時は、右解離試験法はいまだ開発されていなかつたので、同鑑定は従前の凝集素吸収試験法によつているが、同試験方法自体においても昭和二六年当時、前記のように格段の技術進歩がみられ、中でも東京大学古畑法医学教室は、この面でわが国最高の技術水準にあつた。

この当時の微量血痕による血液型検査の研究状況を知り得るものとして、前記安田利治の「微量血痕の血液型検査に就いて」と題する報告では、「乾燥血量が〇・〇二ミリグラムの検査材料までのものについてその血液型を正確に判定できる。」とされている。

(抗告審で立証の予定)

イ そこで、微量血痕についての凝集素吸収試験による血液型検査の当時の実態をみることにする。

血痕量三ミリグラムが必要であるとされていたのは、まず、凝集素の量を〇・二ccとし、また、凝集素の力価(凝集素の強さ・凝集素価ともいう。)を一六として1 2 4 8 16の五段階の検査を行うものであつたが、血痕量が微量の場合には、凝集素の量を多くすることはできないので、凝集素の量を〇・二cc以下にし、また標準の凝集素価一六を弱め、これによつても検査が可能であり、検査方法を工夫すれば、血痕量が微量でも確実な血液型の判定ができた。

たとえば、仮に凝集素の使用量を〇・二ccの半分とすると、血痕の必要量も二分の一で足り、また、凝集素の凝集素価を一六から四に弱めて使用して1 2 4の三段階の検査をした場合は、血痕の必要量は四分の一となる。この両者を併用すると、従前の八分の一の血痕量で足りることとなり、三ミリグラムの八分の一の約〇・三七五ミリグラムで検査が可能となる。更に、凝集素価を低くし、凝集素の使用量を減少させれば、血痕の必要量はより減少する。

古畑第一鑑定においては、岡嶋特研生は、当時微量血痕についての右のような血液型の検査技術を十分体得していたので、その血痕量の少ないことに対応して凝集素価を低くし、かつ、凝集素の使用量を少なくする等して血液型検査を行つた。したがつて、国防色ズボン(証二〇号)に付着する血痕量が仮に原決定の認定する〇・四ミリグラムであつたとしても、確実な検査を行うことができたのである。

(抗告審で立証の予定)

(2)  ところで、原決定は、血痕量が微量であれば、凝集素を順次稀釈するに従つて血液型検査における吸収反応が微弱となり、検査者の主観によつて判定が左右されるとしている。

しかし、血痕量に応じて高力価の凝集素を低力価に調整することは、血液型検査の通常の方法であり、また、血痕と混和させた凝集素を順次稀釈することは、検査過程として当然に行われる操作であつて、血痕の量によつて、その方法に差異のあるものではない。そして、吸収反応は、対照部との比較において観察する限り明確に判断されるのであつて、微量血痕であるからといつて、吸収反応が弱くなり、その判定が困難となるわけのものではない。吸収反応の有無の判断は、凝集が視認されるか否かということであつて、これは色調の判断というような主観に著しく左右されるものと異なり、きわめて客観的に正確に観察される。その吸収反応の観察は、客観的に標準とされている吸収反応の程度との比較の上で行われ、その結果は、「プラス」「プラスマイナス」「マイナス」等として表示される。それは、決して主観に左右されるものではないはずである(三上芳雄証言・一九分冊七五七の一七九二丁裏ないし一七九三丁裏)。

確かに、微量血痕の場合には、検査の際、その方法を十分工夫することが必要であり、凝集状況の判断を含め相当な熟練を必要とすることはいうまでもないが、東京大学古畑法医学教室は、微量血痕について当時、わが国最高の技術水準にあり、岡嶋特研生は後述するように血痕鑑定の熟練者であつて、これについて十分な技術を有していた。

また、微量血痕の場合、一回の検査で血痕を使い切るので反覆検査ができないわけであつて、古畑第一鑑定書に、十分な検査をすることができなかつたと記載されているのはこの趣旨であるが(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九四八丁表裏)、そのため判定結果が不確実であつたということではないのである(三上血痕鑑定書・一三分冊一〇二九丁表、岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九四八丁表、三上芳雄証言・一九分冊七五七の一六三二丁表ないし一六三四丁裏)。

したがつて、微量血痕であつたため、古畑第一鑑定の判定が不確実であるおそれは全くない。

(抗告審で更に立証の予定)

(3) ア 前述したように、原決定は、古畑第一鑑定が国防色ズボン(証二〇号)の血痕の血液型検査に使用した血痕量を約〇・四ミリグラムとしており、この程度の量で血液型の確実な判定ができることはさきに述べたとおりであるが、付言するに、右血痕量を約〇・四ミリグラムと判断したことについて、原決定は、船尾血痕鑑定によつて、けしの実大と半米粒大の大きさを推定し、白木綿の布に付着させた血痕一〇×五ミリメートルの矩形の血痕量との面積の比較計算でその血痕量を算出しているが、そもそも、血痕量は、平面のみで計られる(船尾忠孝証言・一六分冊七五七の三九六丁表裏)べきものではなく、その体積によつて計らなければならないことは明白である。殊に、後記第三、一、1、(二)、(1) 、アで述べるとおり遠藤鑑定書によると、本件付着血痕は多少光沢のある暗褐色又は黒褐色の飛沫血痕で塊をなしていたとあり(二〇分冊一五二丁表裏)、相当な厚みがあつて単なる面積比較よりは血痕量がはるかに多かつたとみられる。この点について、船尾血痕鑑定中、着衣付着のけしの実大、半米粒大の各血痕の血痕量は、それぞれの大きさの血粉の半分くらいの量と大ざつぱにみられると述べている部分は、むしろ正しい見方ともいえよう。その場合、けしの実大の血痕の血痕量は〇・一三五ミリグラムないし〇・〇四五ミリグラム、半米粒大の血痕の血痕量は一・何ミリグラムとみられる(船尾忠孝証言・一六分冊七五七の四六八丁裏、四七九丁裏)。

また、原決定は、船尾血痕鑑定をもとに、けしの実大は長径一ミリメートル、短径〇・五ないし〇・七ミリメートルと判断しているが、古畑第一鑑定において、けしの実大というのは、法医学上の簡易な標示法の一つであつて、実際のけしの実の大きさとは必ずしも一致しない。「法医学計数」(松倉豊治編昭和二二年東洋書館刊)によると、法医学上のけしの実大とは、直径約〇・一センチメートル(一ミリメートル)の円型の斑点と理解されており(同書表紙見返し「大キサ及容量簡易標示表」、この点は抗告審で立証の予定)、船尾鑑定人も、一ミリ×一ミリという円型みたいなものも、人によつてはけしの実大と表現することはあり得ると述べている(船尾忠孝証言・一六分冊七五七の五一〇丁表)のであつて、法医学上にいうけしの実大である直径一ミリメートルの円型は、船尾血痕鑑定にいうけしの実大よりは短径が長くなり、したがつて、その血痕量も増加することとなる。右直径一ミリメートルの血痕量を船尾血痕鑑定書六頁付表ANo.2に基づいて計算すると、〇・〇四ミリグラムとなる。

このように原決定は、古畑第一鑑定における血痕量について、少なくみすぎているものと考えられる。

イ 原決定は、船尾血痕鑑定のいうとおり、血液型検査には二、三ミリグラムの血痕量を必要とすると判断し、その根拠として、まず、三上血痕鑑定が二ないし三ミリグラム以下でも判定は可能であるとしながら、同人の論説「乾血における血液型判定上の錯誤について」には、「確実な成績を求むるとすれば、新しい材料で五ミリグラム古い材料で二〇ミリグラムを要すると信ずる。」と記載していることから、二、三ミリグラム以下で検査はできても、その程度では破実な判定はなしがたいとしている。

しかし、右論説は、微量血痕の血液型検査の研究がいまだ必ずしも十分でなかつた昭和一〇年に発表されたものである上、血液型判定上の誤りを防止するための技術上の方策を述べることを目的としたものであるから、その趣旨を強調して右のように述べられたものであつて、本問題に関する限り適切な論説とはいいがたい。

ウ 原決定は、血液型検査に二、三ミリグラムの血痕量を必要とすることの根拠として、更に、岡嶋証言が確実に血液型を判定するとなると二、三ミリグラムは欲しいということになると述べているとして、同人が二、三ミリグラムないと判定が不確実となる場合のあることを否定していないとみている。

しかし、この点に関する岡嶋証言は、「確実に判定するということになりますと、そのくらいの量(二、三ミリグラム)がほしいということになるわけですが、これは検査してみないことには、と言いますか、あらかじめこの血痕は何ミリグラムあるかということを検体を見て判断するということは、これはなかなか難しいことで、一応検査してみて、どのような反応になるかということを見た上でないと何も言えないということです。」「そのときの技術とか微妙な問題もありますけども、二ミリとか三ミリ以下でも血液型の判定が可能である場合は、もちろんあり得たと思います。」「確実に検査できるというようなことでは三ミリくらいということは耳にしておりましたけれども、必ずしもそれがそれ以上なければ検査ができないとか、それ以下だつたら検査が不可能であるというような厳密な境界線ではなかつたと思います。」というのであつて(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九五六丁裏ないし九五七丁裏)、同証人が血痕量として二、三ミリグラムいるというのは、前述のように血液型検査の一応の知識、技術を有する者が行う場合に必要とされる数量としてであり、また、微量血痕の場合には検査方法に特に慎重ち密さを要求されるので、できればこのような特別の配慮を必要としない数量を欲しいということを述べているにすぎない。

そして、同証人が二、三ミリグラム以下であつても血液型検査ができるといつているのは、右の量であつても確実な判定ができるという意味であることは明らかである。同証人は、古畑第一鑑定を確実性に欠けるものとは、決して思つていないのである。

岡嶋証言に対する原決定の右のような理解は、到底正しいものということはできない。

(抗告審で更に立証の予定)

(二) 人血試験を血痕四個の一部について行つたのみで全部について行わず、かつ、これらの血痕を集めて血液型検査をした点について

原決定は

岡嶋特研生は、国防色ズボン(証二〇号)に付着していた四個の血痕全部について人血試験を実施したのではなく、そのうちの一部について実施した上、付着の各血痕全部を集めて凝集素吸収試験を一回実施したので、人血試験をそれぞれ経ていない血痕が、凝集素吸収試験の対象として集めた中に入つていることは否定できない。ところで、人血に動物の血など他の物質がまじつた場合、犬猫などの動物の血でも、凝集素を吸収するものであると認められるから、動物の血などがまじつているのに、すべて人血であるとの誤つた認識のもとに血液型の判定をすれば、重大な誤りをおかすことになる。また、すべてが人血であるとしても、血液型の異なる血液がまじつていた場合の血液型判定について考えてみるに、凝集素吸収試験は、原理的にはさして問題はなく、血液型の判定を誤る危険性はないように考えられるが、ただ、抗O凝集素は他の凝集素と異なり、単にO型の血液のみならず、他のいずれの血液型の血液にも吸収される性質をもつところに問題がある。

その結果、船尾血痕鑑定によれば、血痕量がきわめて微量である場合や、更に、異なる血液型の血液がまじつている場合に、血液型の判定を誤る危険性が高いというのである。すなわち、船尾血痕鑑定は、A型あるいはB型の血液を例にとれば、これらはそれぞれ抗Aあるいは抗B凝集素を吸収するのと同程度に抗O凝集素をも吸収するから、A型あるいはB型単独の血液であつても、きわめて微量の場合、それぞれO型の血液と判定を誤ることがあり、ましてや、もしそれがごく微量で単独では血液型の判定ができないA型の血液と、同様ごく微量のB型の血液がまじつている場合、抗Aあるいは抗B凝集素は吸収されないのに、抗O凝集素は吸収されるということもあり得るのであつて、そうなると、O型の血液は全く存在しないのに、O型の血液と誤つて判定されることとなる旨、指摘する(なお、船尾血痕鑑定によれば、抗O凝集素に代えて現在使われている抗H凝集素は、O型以外の血液にも多少は反応するが、程度の差がはつきりしており、抗O凝集素を使つた場合のように判定を誤る危険性はないという。)。

そこで検討するに、船尾血痕鑑定のみならず三上血痕鑑定によつても、抗O凝集素は抗Aあるいは抗B各凝集素と異なり、O型の血液だけでなく、A、BあるいはAB各血液型の血液にも吸収される性質を有することが明らかであるところ、その吸収の程度について、船尾血痕鑑定は、A型あるいはB型の血液の、それぞれ抗Aあるいは抗B凝集素に対する吸収力と同程度という。岡嶋証言も、抗O凝集素に対する吸着の度合は、O型の血液であろうと他のいずれの血液型の血液であろうと同じ位であると述べている(同証言速記録三七丁表(一七分冊七五七の九五六丁表))。のみならず、古畑第一鑑定書一〇頁、一一頁にも、軍隊用袴下(証一九号)に対する凝集素吸収試験の検査成績として、検体斑点の部の1、2、4倍稀釈の抗A凝集素に対する吸収反応+--、同各倍数稀釈の抗B凝集素に対する吸収反応++-、同各倍数稀釈の抗O凝集素に対する吸収反応+--、このようにこの斑点は、抗A凝集素と抗O凝集素を吸収し、抗B凝集素を吸収しないからA型であると判定した旨、記載されているのである。

これらの証拠によれば、古畑第一鑑定時(昭和二六年ころ)血液型判定に使われていた抗O凝集素は、O型の血液のみならず他のいずれの血液型の血液によつても、A型あるいはB型の血液が抗Aあるいは抗B凝集素を吸収するのと同程度に、吸収される性質を有していたものと認められる。この点に関し、三上血痕鑑定中、右認定に反する部分は到底措信できない。

そして、各血液型の血液に各凝集素を加えた場合、右認定事実に基づきその反応として吸収するものを-、吸収しないものを+と表示して、これを模型図的に説明すると、次のようになる(岡嶋証言速記録末尾添付の写真一(一七分冊七五七の一〇二三丁)参照)。

血液

A型 B型 AB型 O型

抗A凝集素  -  +  -  +

抗B凝集素  +  -  -  +

抗O凝集素  -  -  -  -

そうだとすると、船尾血痕鑑定が指摘するように、たとえば、A型及びB型の血液が同量程度にまじつている場合、抗O凝集素に対する吸収力は、抗Aあるいは抗B凝集素に対する各吸収力の二倍ということになるから、血液量がきわめて微量である場合、抗Aあるいは抗B凝集素は吸収されず、抗O凝集素のみ吸収され、その結果、O型の血液が存在しないのにO型の血液型と判定を誤る危険性は理論的にあり得るのであつて、到底これを否定することはできない。

この点に関し、検察官は、岡嶋証言を援用し、A型とB型の血液がまじつている場合、抗O凝集素を吸収するならば、抗A及び抗B凝集素をいくらか吸収する(検査成績表上、プラスマイナス(±)あるいは半プラス(┴)と表現される。)から、一般に、異なる血液型の微量血痕が混在していることが判明し、O型の血液と誤つて判定することはないという。

しかし、プラスマイナスという反応がある訳ではなく、あるいはプラスが強くあるいはマイナスが強いことがあり、これをプラスとみるかあるいはマイナスとみるか、更にあるいは判定不能とみるかは全く主観にゆだねられ、判定を誤る危険性は否定できないのみならず、前示のとおり、理論的に血液量がきわめて微量の場合、抗Aあるいは抗B凝集素には反応を示さないのに、抗O凝集素のみを吸収することもあることは否定しがたい。岡嶋証言も、もし違つた種類の血液がついていれば、致命的である旨述べ(同証言速記録四三丁表(一七分冊七五七の九六二丁表))、このような場合、判定を誤る危険性を否定する趣旨ではないと考えられるから、検察官のいうところは失当である。

また、岡嶋特研生は、右四個の斑痕を集めて凝集素吸収試験を実施したと認められるところ、このような検査方法をとつたことについて、岡嶋証言は、これらの斑痕はいずれも微量であり、かつ、同一性状、同一由来のものと考えられたから、と述べている。また、三上血痕鑑定は、血痕付着部分が近接した場合であるから、同一人の血液とみて差支えなく、したがつて、右のような検査方法は妥当といえるし、このような微量血痕の場合は仕方がないという。

なるほど、確かにこれら斑痕が同一性状、同一由来のものであるとの判断が全く相当であり、したがつて同一人の血液であろうことが、客観的にも高度の蓋然性をもつて推認できるというのであれば、血痕量の点は別として、右のような検査方法によつて得られた結果も一応妥当といえるであろう。しかし、同一由来というのは、同じ機会に同じ原因で付着したことをいうと解されるところ、このようなことは本来、単に斑痕の外観のみによつて主観的に決せられるべきものでないから、その性状、位置関係などのほか、更に斑痕付着の着衣の状況などに至るまで十分に検討し、あるいは他の証拠とも相まつて斑痕付着の契機について慎重に考えを巡らしたうえで、判断できることであろう。また、同一性状というのは語義どおり同一性質、形状をいうものと解され、この点は斑痕のみによつて判断し得るところではあろうが、これとても、まさにこれからの検査によつて明らかとなるべき人血であるか否かの点の検査を省略した上、同一の血液型であるとの前提の下に斑痕を集めて血液型の検査をするからには、それなりの慎重、かつ、十分な検討を要するものと考えられるところ、果して以上述べたような配慮の下に右の判断がなされたかは、本件の場合、はなはだ疑問である。

右のことは、軍隊用袴下(証一九号)に付着していたというけしの実大数十個の斑痕についても、岡嶋証言によれば、これらはいずれも蚤の糞とみられたので、同一性状、同一由来のものと考え、国防色ズボンの場合と同様、人血試験を一部についてのみ行つて他を省略し、かつ、これら斑痕を集めて凝集素吸収試験を行つたというのであるが、蚤は他の人やあるいは猫などの動物にもつき移動するものであるから、外観上蚤の糞だからといつて、必ずしも同一人の人血であるともいえないのに、これらの点に思いをいたさず、安易に同一性状、同一由来のものとみて、右のような検査方法をとつていることからもうかがい知ることができる。

検察官が指摘するように、国防色ズボン(証二〇号)に関し、遠藤鑑定書に、斑痕はほぼ同様な性状を呈し、いずれも飛沫血痕のようにみえたと記載してあるからといつても、これらが同一面上に近接して付着しているというのであればともかく、前示のとおり四個の斑痕中、けしの実大二個はズボンの「前面」に、これと離れて、けしの実大一個と半米粒大の一個はズボンの「後面」に付着していたというのであり、これらが飛沫血痕であるというのならなお更のこと、同一機会に付着したものとは必ずしもいいがたいのである。岡嶋証人自身も、当時忙しかつたので、血痕そのものについてしか考えを巡らさなかつた、いちいち付いた状況まで考える余裕はなかつたと述べている(同証言速記録八七丁裏(一七分冊七五七の一〇〇六丁裏))。

これらの点を併せ考えるならば、古畑第一鑑定は、前記のような検査方法をとるについて、慎重、かつ、十分な配慮の下に同一性状、同一由来のものと判断した訳ではなく、単に同一ズボンに付着し外観上似たようなものであるという程度の判断によつて、人血試験を一部省略した上、これら斑痕を集めて血液型判定の検査をしたにすぎないといわざるを得ない。

もつとも、検査方法に右のような疑問があるとしても、国防色ズボン付着の各斑痕が同一由来のものであることが、他の証拠とも相まつて客観的に認定されるならば格別、また、確定記録中の古畑第一鑑定の際の鑑定人尋問調書によれば、古畑鑑定人に対し、一件記録が貸与されていることは認められるものの、本件において右各斑痕が同一由来のものであることを認め得べき唯一の証拠である請求人の自白は、前示のとおり数々の疑点があつてその信用性は否定さるべきである。しかも、後記第三、一、1、(三)で述べるように、本件血液型検査における実験や判定は、この種検査に習熟していない岡嶋特研生によつて殆んど行われ、とりわけ、付着斑痕が同一性状、同一由来のものと認められるかどうかについて、古畑鑑定人がどの程度関与して検討したか疑問である。

以上の点について三上血痕鑑定のいうところは、失当であり、古畑第一鑑定の結論が妥当であつたとはいえない。

旨、判示する。

原決定は、右のとおり船尾血痕鑑定を拠りどころにして、古畑第一鑑定が国防色ズボンについて人血試験を被検血痕四個の一部について行つたのみですべてについて実施せず、かつ、これらの血痕を集めて凝集素吸収試験による血液型検査をしたことをもつて、動物の血液あるいは異なつた血液型の人血が混合していて判定を誤る危険性があるというのであるが、これらの血痕は、以下詳述するとおり、付着血痕の位置、性状、着衣の状況等からみて同一機会に同一人の血液が付着したものと明らかに認められるので、原決定のいうように血液型の判定を誤る危険性はない。のみならず、異なつた血液型の人血が混合した場合は、凝集素吸収試験の検査成績の上で必ず明白になるので、A型、B型の血液をO型と誤る危険性はなく、原決定は明らかに誤つている。

(1)  付着血痕は、同一性状、同一由来のものである。

ア 血液型鑑定において、個々の血痕すべてについて人血試験、凝集素吸収試験を行うのが望ましいことはいうまでもないが、血痕が微量でそれが困難であるときでも、各血痕が同一性状、同一由来と認められている限りは、一部の血痕についてのみ人血試験を行い、あるいは血痕を集めて凝集素吸収試験を行うことは、法医学界で広く行なわれていることであつて決して珍しいことではない(三上芳雄証言・一九分冊七五七の一六二二丁表)。

しかし、原決定は、古畑第一鑑定が、付着血痕を同一性状、同一由来と認めた判断は付着血痕の位置、性状から、また、岡嶋特研生の習熟度からみても、慎重、かつ、十分な検討、配慮の下になされたかどうか、はなはだ疑問であるという。

そこで、国防色ズボン(証二〇号)付着の血痕について、その位置、性状などを観察する。

昭和二五年八月二六日付遠藤鑑定書は

本物件の右脚下半で前面の略中央(木牌を附して其の部分を示す)及略々後面の下端等に暗褐色乃至黒褐色の小斑点若干を附着し、之等は何れも略々同様な性状を呈し、木牌を附した部分の斑点は「ルミノール」発光反応及「ウーレン・フート」氏人蛋白沈降反応を陽性に与えるので、人血痕である。之等は何れも表面から附着したもので、裏面から附いたものでなく、且つ「ルーペ」で検すると、多少光澤のある飛沫血痕の様に見え、何れも微小で血痕の量が少なく、血液型の検査を行ふに充分でないから之を行はなかつた。本物件が私の手許に送致せられた時には、被検汚斑が赤色の稍々太い線で円く囲まれ、其の部位を明視せられてあり、かゝる汚斑は何れも血液検査(「ルミノール」発光反応)が陰性であるのに反し、赤い印のない更に微細な暗褐色乃至黒褐色の小斑点は、陽性の血液反応を呈した(註、血液検査陽性の斑点若干には「チヨウク」で白印を附して居いた。)。而して本物件が洗濯せられたとしても、血液反応の陽性を呈した斑点の中には洗濯を免がれたと思はれるものがある。即ち、其の量は極めて少ないが、已記の如く多少光澤ある黒褐色の微細な塊をなして附着して居る。

旨(二〇分冊一五二丁表裏)

昭和二六年六月六日付古畑第一鑑定書は

本物件の右脚前面の下半部には木札を附した部が二ケ所あり、米粒大の部分が切り取られている。本物件には、各所に赤線で印をつけられた斑點が多数あるが、何れもベンチジン反応が陰性であるので血痕ではない。又右脚前面の中央より稍下方及び右脚後面の下方に白チヨークでマークせられた部が三ケ所あるが、その部には、けしの実大の暗褐色の斑痕三ケ(写真十乃至十三の1、2、3)及び半米粒大の暗褐色の斑痕一ケ(写真十一及び十三の4)が認められ、其斑點は何れもベンチジン反応陽性である。これ等の斑痕は、岡山医大法医学教室の遠藤中節氏の鑑定により人血であると判定せられているが、私の検査に於ても、抗人血色素沈降素による人血反応が陽性にでたから、この血液が人血であることは確実である。血痕の附着が微量であるので、一つ一つについて検査することは困難であるから、これらを集めて血液型の検査を行つた。

旨(二一分冊四〇六丁表裏)

昭和四六年五月一〇日付古畑第二鑑定書は

資料には、赤印のつけてある個所で、一見血痕様の斑点が多数みられますが、これらの個所は血痕予備検査にいずれも陰性でありました。しかし、右裾部の後側で、すでに前の鑑定のために切取つたと思われる部位に隣接したところ(添付図2参照)に淡赤褐色の付着斑が認められました。そこで、その部分について前記の血痕予備検査、実性検査および人血検査を試みましたところ、いずれも陽性の反応を示し、付着斑は人血痕であることが明らかになりました。

旨(二分冊五八〇丁表裏)、それぞれ述べている。

イ そこで、右各鑑定書(添付写真を含む。)の記載及び国防色ズボン(証二〇号)に基づいて、別添国防色ズボンの模型(実物大)(以下「ズボン模型」という。)を作成し、付着血痕、その切り取り部分の各位置、形状などをできるだけ正確にズボン模型に表示することとした。

右によると、血痕は八個で、いずれもズボンの右脚の下半部に付着している。ズボン前面に、遠藤鑑定で切り取られて木札の付されたもの二個(血痕1、2)、同じく前面に、古畑第一鑑定で切り取られたけしの実大のもの二個(血痕イ、ロ)、ズボン後面に、古畑第一鑑定で切り取られたけしの実大のもの一個(血痕ハ)と半米粒大のもの一個(血痕ニ)、同じく後面に、古畑第二鑑定で切り取られたもの二個(血痕a、b)がある。右各血痕の位置をみると、なるほど、原決定が同一機会の飛沫血痕とはいいがたい理由として述べているように、血痕八個全部がズボンの前面又は後面のみに付着しているのではなく、四個はズボンの前面に、四個は後面にある。しかしながら、一番距離の離れている前面の血痕1と後面の血痕ニとの間でも、約三四・四センチメートル(鑑定のため切り取られた布の部分の中心点から中心点までの距離。以下同じ)離れているにすぎない。しかして、ズボンの前面中央やや左側(向つて左側。以下同じ)の血痕1は、ズボンの裾より約二五・三センチメートルで、これが八個の血痕中、一番高い位置にある。この血痕1から約六・七センチメートル右斜下の位置、ズボンの前面中央やや右側に血痕イがあり、それは裾より約二一・三センチメートルで、血痕1よりやや低い位置となつている。血痕イの右斜上約三センチメートルにあるズボン前面の血痕ロは、裾より約二二・五センチメートルで、血痕イより僅かに高い。血痕ロの右斜下約八・五センチメートルにある、ズボン前面の血痕2は、裾から約一四・二センチメートルと相当低い位置にある。次いで、ズボンの後面に回つてみると、前記血痕2の右斜下約一五・二センチメートルのところにあるズボン後面の血痕ハは、裾より約七・二センチメートルで、一段と低い位置にある。血痕ハの右斜上約一・二センチメートルに血痕aがあり、これは裾より約八センチメートルの高さの位置にある。血痕ハの真下約七センチメートルの位置に、血痕bと、そのすぐ右側に接着して血痕ニがあり、この二つは、ズボンの裾に接着しており八個の血痕中最も低い位置にある。右のような状況であつて、ズボン模型によつて明瞭なとおり、血痕1、イ、ロ、2、ハ、a、b、ニは、左斜上から右斜下にかけて約七センチメートル幅の一線上に並んでいる。

これらの血痕は、遠藤鑑定書記載のとおり、ほぼ同様の性状を呈し、暗褐色又は黒褐色で多少光澤のある飛沫血痕ようにみえるものである(古畑第二鑑定の被検血痕abについては、更に後述する。)。

しかも、本件国防色ズボンは、よれよれで、折り目もなく、人が着用した場合、その人の体位、動きなどによつて、ズボンの前面、後面というも、その区別は、原決定のいうように必ずしも整然としているものではなかろう。

右のような付着血痕の位置、性状、ズボンの状況などからみれば、血痕八個は、同一の機会に同一人の血液が付着したものであることは、明らかで、原決定のいう高度の蓋然性をもつて推認できる場合にあたる。

ウ 古畑第一鑑定書は、遠藤鑑定で切り取られた血痕1及び2が同鑑定において人血と判定されていることを記載しており、したがつて、古畑第一鑑定が、その鑑定の際、被検血痕四個(血痕イ、ロ、ハ、ニ)のほか、右遠藤鑑定の被検血痕二個(血痕1、2)の位置、性状などについても、関心を払い検討したものと思われる。

岡嶋特研生は、これら血痕をいずれも同一性状、同一由来と認め、血痕四個を集めて血液型検査をしたものと認められる(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九三五丁裏、九四六丁表)。そして、これは、法医学者としての専門的見地からなされたものであつて、原決定のいうように、単に同一ズボンに付着し、外観上似たようなものであるという程度の判断からでたものではない。このように、古畑第一鑑定において、四個の血痕を同一性状、同一由来と認定し、これらを集めて血液型を検査したことについては、三上血痕鑑定も、その方法を妥当と認めているのである(三上血痕鑑定書・一三分冊七五六の一〇二七丁裏、一〇二八丁表、一〇三五丁表裏、三上芳雄証言・一九分冊七五七の一六三一丁表ないし一六三二丁表)。

(抗告審で更に立証の予定)

エ また、原決定は、古畑第一鑑定が軍隊用袴下(証一九号)の血液型検査について、多数の斑痕がいずれも蚤の糞で同一性状、同一由来と認められるとして、国防色ズボンの場合と同様、これらを集めて血液型の検査をしている(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九三五丁裏、九三九丁裏)ことについて、蚤は人や猫など動物に自由に移動するものであるから、外観上蚤の糞だからといつても必ずしも同一人の人血であるともいえないとして、古畑第一鑑定の同一性状、同一由来の認定がずさんであつたことの例示としている。

しかし、証一九号の付着斑痕は、一見して蚤の糞であることが明らかで、犯罪と関係のないものであることが明白であつたから、国防色ズボン(証二〇号)のようには、必ずしも厳格な同一性状、同一由来の認定をしないで、多数の微量斑痕を集めて血液型の検査をしても、別に問題を生じないのであつて、同じ法医鑑定といつても、犯罪認定の資料となる可能性のあるものとそうでないことが明白なものとでは、取扱いが異なることは当然であろう。証一九号の蚤の糞の場合を、証二〇号の場合にあてはめ、証二〇号についての同一性状、同一由来の認定が安易であつたとする原決定の説示は納得しがたい。むしろ、三上血痕鑑定が述べる(三上血痕鑑定書・一三分冊七五六の一〇三五丁表裏、三上芳雄証言・一九分冊七五七の一六六八丁表裏)ように、斑痕が袴下の裏側にあること、蚤の糞であることを確認すれば、同一性状、同一由来と認めて鑑定することは、鑑定人として当然のことと考えられる。

なお、証一九号は袴下であるから、請求人は、本件犯行時にも、もちろん国防色ズボン(証二〇号)の内側に着用していたものであつて、本件の場合、袴下に被害者の血液が付着するような状況は、全く考えられなかつた。付言するに、人の血を吸う蚤と猫など動物の血を吸う蚤とは種類が異なるのである。

(抗告審で更に立証の予定)

オ 更に、原決定は、岡嶋証人の「当時忙しかつたので、血痕そのものについてしか考えを巡らさなかつた。いちいち付いた状況まで考える余裕はなかつた。」旨の証言(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の一〇〇六丁裏)を指摘しているが、同証人は、前述のとおり血痕自体から同一性状、同一由来と認め血痕四個を集めて血液型検査をしたものと認められるのであるから、右証言をとらえて、血痕の同一性状、同一由来について、同証人が慎重、かつ、十分な配慮の下に、正しく判断しなかつたとするのは誤りである(抗告審で更に立証の予定)。

カ また、原決定は、付着血痕を同一性状、同一由来と認定するについて、古畑鑑定人がどの程度関与したか疑問であるといつているが、後記第三、一、1、(三)で述べるとおり岡嶋特研生の当時の学識、経験からすれば、その判断に誤りがあつたとは考えられない。

キ 原決定が、血痕が同一由来のものと認め得べき請求人の自白の信用性を否定する点については、前記第二で詳しく述べたとおりである。

(2)  人血試験を一部省略したことによつて、血液型の判定を誤つたことはない。

原決定は、古畑第一鑑定が国防色ズボン(証二〇号)について、人血試験を血痕の一部について行つたのみで全部について行わなかつたことによつて、動物の血液が混在する可能性を否定しがたく、血液型の判定を誤る危険性があつたというが、そのおそれはない。

国防色ズボン(証二〇号)の血痕の位置、性状等については、右(1) で述べたとおりで、それによると、八個の血痕は、同一の機会に同一人の血液が付着したものと認められる。この八個の血痕のうち、古畑第一鑑定の被検血痕四個中右脚前面二個の血痕イ、ロは、遠藤鑑定の二個の血痕1、2と至近距離にあり、また、古畑第一鑑定の残りの後面二個の血痕ハ、ニは、古畑第二鑑定の二個の被検血痕a、bとそれぞれ接着している。しかして、右血痕1、2は遠藤鑑定によつて、右血痕a、bは古畑第二鑑定によつて、個々の血痕ごとに人血試験が実施され、いずれも人血と認められているのである。

更に、古畑第一鑑定において、被検血痕四個のうちその一部について、抗人血色素沈降素血清による人血試験を行つた結果、陽性と認められている(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九四五丁裏、古畑第一鑑定書・二一分冊四〇六丁裏)。

右のような状況からみると、古畑第一鑑定において残りの血痕について人血試験を行わないでこれを人血と認めた上、血液型検査を行つたことは、本件の場合、適切であつて、それによつて血液型の判定を誤るおそれは全くない。

(3)  血痕を集めて血液型検査をしたことによつて、血液型の判定を誤つたことはない。

ア(ア) 原決定は、古畑第一鑑定のように血痕を集めて血液型検査を行つた場合、血液型の異なる血液が混じり、血液型の判定に重大な誤りをおかすことになるという。原決定の判断は、抗O凝集素は、単にO型血液のみならず、他のいずれの血液型の血液にも吸収され、かつ、その吸収の程度は、A型あるいはB型の血液が抗Aあるいは抗B凝集素を吸収するのと同程度であるから、血痕が微量であれば、O型血液が存在しないのに、誤つてO型と判定される危険性があるというのである。

なるほど、抗O凝集素は、単にO型のみならず、他のいずれの血液型にも吸収される特性を有するものであるが、その吸収の程度は、O型とその他の血液型との間に大きな差異があり、原決定がいうように、抗O凝集素が、O型のみならず他のいずれの血液型の血液によつても、A型又はB型の血液が抗A又は抗B凝集素を吸収するのと同じ程度に吸収される性質を有する抗体、いいかえれば、すべてのABO表現型のヒト血球と同程度に反応する抗体として一般に受け入れられているということは、いかなる文献にもない。かえつて、抗O凝集素とは、O型のヒト血球と特に強く反応し、その他の血液型のヒト血球とはより弱く反応するか又は一見反応しないようにみえる抗体であるといわれている。

この点につき、更に、原決定は、船尾血痕鑑定を根拠として、抗O凝集素が改良されて抗H凝集素となつたもので、抗O凝集素はすべての血液型に同程度に吸収されるが、抗H凝集素はO型以外の血液にも多少反応するものの、O型血液と吸収程度の差がはつきりしているので、抗H凝集素ならば、抗O凝集素と異なり、判定を誤る危険性はないという。

しかしながら、抗O凝集素の沿革をみるに、一九二七年シツフが牛の血清中に抗O凝集素の性質を有する新しい抗体を発見し、これを抗Oと呼んで以来、この名称が普遍的に使用されてきたが、一九四八年モーガンらは、それまで抗Oと呼ばれていたほとんどの抗体に対応する物質(O物質)は、A型物質やB型物質の基礎になる物質であるとして、これをHの記号であらわし、抗体を抗Hと呼ぶことを提唱し、その後、血液型物質の免疫化学的研究の進歩に伴い、H、抗Hの名称が次第に定着してきたのである。日本でHなる名称が一般に使われるようになつたのは、昭和三〇年代であるが、当時しばしば、O(H)と併用した名称が使用されており、昭和四〇年代から五〇年代にかけてようやくHの呼称が定着したのであつた。このような事実からみて、抗O凝集素と抗H凝集素は、同様の性質のもので、原決定のいうように性能に差異のあるものではない。右のとおり、抗O又は抗H凝集素は、長い歴史を有するので、その間純度の面で漸次改善されてきているが、少なくとも昭和二六年当時、東京大学法医学教室で使用されていた抗O凝集素は、船尾血痕鑑定のいうように性能の劣悪なものではなかつた。

抗O凝集素は、従来用いられていた抗Aと抗B凝集素だけでは、血痕が微量のため吸収反応を示さない場合に誤り易いといわれていたO型の判定について、血痕がO型であれば抗O凝集素が特に強く吸収する点において、O型の誤認を防ぐ抗体として、画期的な発見と評価されたものである。もし、原決定のいうように、すべての血液型に同程度に反応するのであれば、抗O凝集素を使用する実益はないといえる。

(抗告審で立証の予定)

(イ) 原決定は、抗O凝集素がすべての血液型の血液に吸収される程度が、A型又はB型血液における抗A又は抗B凝集素と同程度と判断される根拠の一つとして、船尾血痕鑑定の見解(船尾忠孝証言・一六分用七五七の四八九丁表ないし四九二丁裏)によつて、古畑第一鑑定書における軍隊用袴下(証一九号)の検体斑点に対する凝集素吸収試験の検査成績が、1、2、4倍稀釈の抗A凝集素に対する吸収反応は+--、同各稀釈の抗B凝集素に対する吸収反応は++-、同各稀釈の抗O凝集素に対する吸収反応は+--であり、このように右斑点は、抗A凝集素と抗O凝集素を吸収し、抗B凝集素を吸収しないので、A型と判定した旨の同鑑定書の記載を挙げている。

なるほど、右検査成績によると、右斑点につき、抗A凝集素と抗O凝集素の各吸収反応が同じ+--となつているので、抗O凝集素は、A型についても、抗A凝集素と同じ程度に吸収されると見られる余地がある。

しかしながら、凝集素吸収試験法においては、凝集素の稀釈の程度、加える血球の量・質・温度、時間等の条件に微妙な差が生ずるものであつて、これによつて吸収反応の結果に相異を来たすこととなるので、右の差を考慮に入れて反応の程度を正確に確認するために、斑点部の検査をするだけでなく、対照部についても、同一の条件で検査することが行われている。古畑第一鑑定もこの方法によつている。

したがつて、凝集素吸収試験の結果は、斑点部の吸収成績のみによつて判断すべきものではなく、斑点部と対照部との各吸収試験の結果を比較観察して、斑点部について、どの程度吸収しているかを判断すべきものである。

右のような方法によつて、古畑第一鑑定の検査成績をみると、対照部について、抗A凝集素は〔++〕+-、抗O凝集素は++-となつていることに、まず留意すべきである。

右のように抗A凝集素の稀釈倍数1の段階で、対照部が〔++〕であるのに、斑点部が+であるのは、斑点部において一部吸収していることを示している。これに反し、抗O凝集素の稀釈倍数1の段階で、対照部、斑点部ともに+であるのは、吸収が視認されないことを示している。すなわち、抗A凝集素の吸収反応は一段階半であるが、抗O凝集素の吸収反応は一段階にとどまつていることが、明らかである。このことは、古畑第一鑑定で使用した抗O凝集素が、A型血液に対して、抗A凝集素に比し、吸収反応の程度が弱いことを明白に示すものであつて、原決定のいうように、両者が同程度に吸収されると認めることは到底できない。

右の結果からみて、古畑第一鑑定で使用した抗O凝集素は、O型のヒト血球と特に強く反応し、その他の血液型のヒト血球とはより弱く反応するか又は一見反応しないようにみえる抗体であることが明らかである。そこで、古畑第一鑑定で使用した抗A、抗B、抗Oの各凝集素を各血液型の血液に加えた場合の吸収反応の状況は

A型 B型 AB型 O型

抗A凝集素  -  +  -  +

抗B凝集素  +  -  -  +

抗O凝集素  ±  ±  ±  -

となる(三上芳雄証言・一九分冊七五七の一六三三丁表、一六三四丁表、一七九八丁)、原決定の示す模型図の内容は、誤つている。

(抗告審で更に立証の予定)

イ 右のとおり、古畑第一鑑定において使用された抗O凝集素のA型又はB型血液についての吸収程度は、抗A凝集素又は抗B凝集素のそれと同じでなく、それより弱いことが明らかであるから、その吸収程度が同じであることを前提とした原決定の「船尾血痕鑑定によると、A型及びB型の血液が同量程度にまじつている場合、抗O凝集素に対する吸収力は、抗Aあるいは抗B凝集素に対する各吸収力の二倍ということになるから、血液量がきわめて微量である場合、抗Aあるいは抗B凝集素は吸収されず、抗O凝集素のみ吸収される。」との見解が誤りであることは明白である。

原決定の右見解について、更に言及するに、A型血液に対し抗A凝集素が、B型血液に対し抗B凝集素が、それぞれ吸収反応を起すことは、微量の血液であつても同様であつて、抗A又は抗B凝集素は吸収されず、抗O凝集素のみ吸収されるということは考えられない。検察官が原審において意見書(昭和五三年一二月一一日付三〇頁)で述べたとおり、微量のA型及びB型の血液が同量程度混じつていた場合には、抗O凝集素のみに吸収反応が認められるということはなく、同時に抗A及び抗B凝集素についても吸収反応が認められることとなるのである。まして、前述したように、A型又はB型血液について、抗O凝集素の吸収程度が抗A凝集素又は抗B凝集素に比し弱いので、抗A又は抗B凝集素の吸収反応は、抗O凝集素の吸収反応が確認できる以上、十分確認できるはずである。しかして、血痕の量が検査できないほど微量であれば、抗A及び抗B凝集素のみならず、抗O凝集素についても吸収反応が確認できないこととなるので、血液型判定不能という結果になる。

いずれにしても、A型及びB型の血液が混在していた場合、これらが誤つてO型と判定されることはあり得ない(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九五一丁表ないし九五五丁裏、三上芳雄証言・一九分冊七五七の一六四七丁裏ないし一六五一丁裏)。

ウ しかして、古畑第一鑑定は、国防色ズボン(証二〇号)の検査成績上、抗O凝集素を吸収したというのであり(古畑第一鑑定書・二一分冊四〇六丁裏、四〇七丁表)、このことは、右に述べたところによつて、血液型判定可能な血痕量があつたことを明らかにしている(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九五五丁裏、三上芳雄証言・一九分冊七五七の一六三四丁裏、一六三五丁表)。

次に、前記のとおり、軍隊用袴下(証一九号)の検査成績によれば、同袴下の斑点部の抗A凝集素に対する吸収反応は一段階半であるが、抗O凝集素に対する吸収反応は、一段階にとどまつている。また、国防色ズボン(証二〇号)の検査成績によると、同ズボンの血痕部の抗O凝集素に対する吸収反応は、二段階である(古畑第一鑑定書・二一分冊四〇六丁裏)。そこで、両者の検査成績を併せ考えると、もし、原決定のいうように、国防色ズボン(証二〇号)の付着血痕が同量のA型及びB型の混合した血痕であるとすれば、同付着血痕について、袴下(証一九号)の斑点部の抗A凝集素の吸収反応と同様、抗A凝集素及び抗B凝集素に対する吸収反応が認められなければならないはずである。しかるに、国防色ズボン(証二〇号)の検査成績によれば、抗A及び抗B凝集素に対する吸収反応は、全く認められない(古畑第一鑑定書・二一分冊四〇六丁裏)。このことは、同ズボンの付着血痕が、A型及びB型の血液型ではなく、O型の血液型のみであつたことを明らかに示している。

(抗告審で更に立証の予定)

エ(ア) また、原決定は、船尾血痕鑑定を引用して、「A型あるいはB型の血痕は、それぞれ抗Aあるいは抗B凝集素を吸収するのと同程度に抗O凝集素も吸収するから、A型あるいはB型単独の血痕であつても、きわめて微量の場合、それぞれO型と判定を誤ることがある。」旨述べているが、右のようなことは到底考えられない。

原決定の右見解は、A型又はB型血液が微量であるため、抗A又は抗B凝集素によつて、A型又はB型の血液の吸収反応が視認されない場合を考えているものと思われる。しかし、すでに詳述したとおり、A型又はB型の血液については、抗O凝集素の吸収反応の程度は、抗A又は抗B凝集素に比し弱いので、抗A又は抗B凝集素の吸収反応が認められないのに、抗O凝集素の吸収反応が認められるということはあり得ないが、すでに言及した、A型又はB型血液の抗O凝集素の吸収の程度が、抗A又は抗B凝集素のそれと同一であるという原決定の判断(原決定書四五丁表、この判断が誤りであることは、すでに述べた。)を前提としても、抗A又は抗B凝集素による吸収反応が認められない程度の微量血痕であれば、抗O凝集素の吸収もまた同様、認められないはずであり、したがつて、血液型の判定は不能となる。この点について、船尾証人もいつたん、原決定の右見解にそう証言(船尾忠孝証言・一六分冊七五七の三五六丁表ないし三五九丁裏)をしたが、これを改め、検察官の右見解を肯定する証言をしているのであつて(船尾忠孝証言・一六分冊七五七の四八二丁表ないし四八五丁裏)、原決定の判断は明らかに誤つている。

(イ) 更に、凝集素吸収反応がプラスマイナス(±)又は半プラス(⊥)(±と⊥は同じ。)の場合、それは検査成績上、正確に表示されるので、O型と異なる血液型の微量の血液が混在しているとき、いかなる型の吸収反応も示さない(したがつて、判定不能)ときは格別、反応を示し、たとえば、抗A又は抗B凝集素に対し、±の吸収反応を示す場合、O型と異なるA型又はB型血液の混在が検査成績上、明白に認められるのであるから、この場合、誤つてO型血液と判定することはないという検察官の意見(昭和五三年一二月一一日付検察官意見書三〇頁参照)について、原決定は、「プラスマイナスという反応がある訳ではなく、プラスマイナスというのは、あるいはプラスが強く、あるいはマイナスが強いということであり、これをプラスとみるか、マイナスとみるか、あるいは判定不能とみるかは、全く判定者の主観にゆだねられ、判定を誤る危険性を否定できない。」旨、述べている。

しかしながら、プラスマイナス又は半プラスの用語は、血液型検査の分野において、科学的用語として広く一般に使用され、昭和二五、六年ごろの東京大学法医学教室その他から発表された血液型に関する論文等においても、〔+++〕〔++〕+±-(五段階方式)といつた形で定着していたものであつて、それは、吸収反応が認められるが、プラスの基準値に達しない程度の吸収反応という意味である。すなわち、吸収反応が認められる場合の、その吸収反応の程度(段階)を示す値であり、それは客観的な基準値であるから、原決定のいうように、その判定が判定者の主観に委ねられるという性質のものではない(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九五二丁裏、三上芳雄証言・一九分冊七五七の一七九二丁裏)。

なお、プラスマイナスの用語は、血液型検査以外の分野では、プラスかマイナスか明確でない場合に使用されていることもあるので、原決定は、血液型検査における専門的知識の理解不十分のまま、血液型検査の分野においても、右のような意味に誤解したものと思われる。

(抗告審で更に立証の予定)

(ウ) ところで、原決定もいうように、岡嶋証人は「抗O凝集素のO型血液に対する吸着の程度は、抗O凝集素のO型以外の血液に対する吸着の程度と、厳密にいうと差があつたかも知れませんが、当時としては、同じ位の吸着度合という考えで扱つてきました。また、そういうふうに反応が出ていたように記憶します。」旨(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九五六丁表裏)、述べているのであるが、これは同人が昭和二七年以降、人類遺伝学・発生学の部門を専門とし、血液型検査の仕事から遠ざかつていたので、抗O凝集素のO型血液とその他の型の血液に対する吸収反応の程度に差のあること、血痕部の吸収試験の結果のみならず、対照部の吸収試験の結果をも比較観察する必要のあることなど、血液型検査に関する技術的な問題について、的確を欠く証言をしたものと思われる。

問題は、岡嶋証人が現時点で、どのように記憶しているかということではなく、当時のわが国の血液型鑑定に関する法医学の水準に立つて、東京大学法医学教室で実施された古畑第一鑑定の血液型検査が、技術的に正しい検査方法をとり、その結果得られた血液型の判定が正しいかどうかという点にあるのである。この点については、すでに詳述したところであり、古畑第一鑑定において、岡嶋証人は、正しい技術的方法によつて、正しい血液型の判定を実施していることが明らかであつて、同証人の二七年も前の時期の記憶が右のようにあいまいになつているからといつて、同鑑定の信用性についていささかも疑う余地はない。

(エ) また、すでに検察官が岡嶋証言などを引用して論述した、微量のA型及びB型の血液が同量程度に混じつていた場合には、抗O凝集素のみに吸収反応が認められるということはなく、同時に抗A及び抗B凝集素についても吸収反応が認められること、凝集素吸収反応が検査成績上、±(┴)を示す場合の判断の仕方に関し、原決定は、「岡嶋証言も、もし違つた種類の血液が混入していれば、致命的である旨(同証言速記録四三丁表(一七分冊七五七の九六二丁表))述べているのであり、岡嶋証言(検察官引用の証言部分)は、このような場合(異なる血液型の血液が混入している場合)には、血液型の判定を誤る危険性のあることを否定する趣旨ではないと考えられる。」旨判示しているが、O型と異なる血液型の血液が混入していても、これをO型(古畑第一鑑定において、国防色ズボンの血痕の血液型はO型と判定)と判定を誤る危険性がないことは、すでに詳述したとおりである。岡嶋証人が「もし違つた種類の血液が混入していれば、致命的である。」と述べた趣旨は、質問と供述の経緯からみて必ずしも明確でないが、それは、判定結果がO型でない場合、たとえばA型とB型が混じるとAB型と判定を誤るというような問題について述べられたものとみられ、本件とは関係がない(抗告審で立証の予定)。

(三) 習熟していない者が鑑定したとする点について

原決定は、古畑第一鑑定の血液型の検査実験と結果判定を担当した岡嶋道夫は、当時、大学院特別研究生にすぎず、本件のような検査に必ずしも習熟していたとはいいがたい上、同人が補助者として古畑鑑定人の鑑定に関与した場合、同鑑定人から指示された事項について実験し、データをまとめて鑑定書の下書をし、これを同鑑定人に提出報告するのが通例であり、古畑鑑定人は通常実験に直接、具体的には関与せず、提出された鑑定書下書を検討し、これに修正加筆して鑑定書を作成していたにすぎなかつたので、岡嶋特研生の行つた血液型判定については判定を誤る危険性があつたという。

(1)  しかし、岡嶋特研生は、昭和二二年九月東京帝国大学医学部医学科を卒業後、インターンを経て、同二三年一〇月に施行された医師国家試験に合格した。同人は、昭和二三年一〇月特に優秀な成績の者の中から選抜されていた東京大学大学院特別研究生に採用され、法医学教室古畑教授の下で法医学を専攻したあと、同二七年八月同大学助手、同三一年三月同大学助教授を経て、同三四年四月順天堂大学教授、同三八年八月から約二年間西ドイツミユンスター大学留学、同四四年四月東京医科歯科大学教授となり、現在に至つている(岡嶋道夫証言調書末尾添付の履歴書・一七分冊七五七の一〇二一丁)。その間、同人は、古畑第一鑑定当時の昭和二六年四月一日から順天堂医科大学(現順天堂大学)の非常勤講師となり、法医学の講義を担当していた。

右のように、岡嶋道夫は、古畑第一鑑定当時、大学院生とはいえ、特別研究生の地位にあつた上、法医学の講義を担当する大学非常勤講師をしていたものであり、深い学識を有していたばかりでなく、同人の東大法医学教室における鑑定実務の経験は、非常に豊富であつた。すなわち、昭和二六年六月六日付の古畑第一鑑定の以前に、同人が同法医学教室において関与した鑑定数は、死体解剖一八五件、物件鑑定三四件にのぼつている。これらの死体解剖は、単なる補助者としてでなく、自ら執刀し鑑定書を作成する責任ある立場にあつた場合が多く、また、物件鑑定のうち血液型の鑑定は、二五件に及んでいる。そして、昭和二六年四月ころには、同教室の後輩に対し、血液型並びに血痕検査等の指導を行うほどの立場にあつた。このように岡嶋道夫は、当時から、古畑教授の信頼を受け、鑑定人あるいはその補助者として、有能な素質・力量と実績を持つていたのである。

しかして、古畑教授を中心とする東大法医学教室の血液に関する研究は、きわめて高い水準にあり、船尾鑑定人が血液に関する屈指の権威者と呼ぶ三上芳雄教授(船尾忠孝証言・一六分冊七五七の三九一丁裏)も「東大がなにいうてもご本尊でございました。」(三上芳雄証言・一九分冊七五七の一七二一丁表)と述べている。このような環境にあつた岡嶋特研生が、古畑教授をはじめとする学識、経験豊かな先輩の適切な指導・助言を受けて優れた血液型検査の技術を有するに至つていたことは、容易に推測される。のみならず、同人は慎重、かつ、ち密な性格の持ち主であつて、使用する凝集素を十分に吟味し、その他検査方法にも万全の注意を払い、かつ、検査結果の判定についても、慎重な態度で臨んでいたので、その検査結果の判定は適切妥当に行われ、きわめて信用性の高いものであつたといえる。

(抗告審で更に立証の予定)

(2)  原決定が、古畑鑑定人は通常実験に直接、具体的には関与せず、岡嶋特研生から提出された鑑定書下書を検討し、これに修正加筆して鑑定書を作成していたにすぎなかつたとする点について、岡嶋証人は、「(問)古畑教授があなたのやられたテストの結果が正しいかどうか、あるいはそのプロセスが正しいかどうか、そういうものを吟味したということはなかつたわけですか。(答)一応どういうふうにやつたとか、細かい話合いはあつたと思いますが、個々のケースのことについては覚えておりません。」というのであり(岡嶋道夫証言・一七分冊七五七の九六四丁表裏)、岡嶋証人が当時の個々のケースの状況につき具体的に記憶していないというだけのことであつて、古畑教授との間でどういうふうにやつたとか、細かい話合い(指示、指導など)のあつたことを証言している(抗告審で更に立証の予定)。

以上述べた諸事情にかんがみ、また、岡嶋特研生の能力などからしても、本件血液型検査の実験方法と結果の判定につき、誤りがあつたとは到底考えられない(なお、「法医学の鑑定をめぐる諸問題」ジユリスト六四四号二五頁、二六頁参照)。

2 古畑第二鑑定について

原決定は

古畑第二鑑定の被検血痕の部位、状況は、軍隊用袴下(証一九号)については、右下腿部の後側にあたる部分の裏側(内側)に、褐色の斑点三個が認められ、上の方の斑点一個は〇・三×〇・四センチメートル位、下の方の斑点二個はそれぞれ〇・三×〇・三センチメートル位であつたが、この二個はわずかに接しひようたん型になつていて、一個のようにもみられるものであり、これらの斑点の色は、いずれも非常にうすい褐色というべきものである(古畑第二鑑定書付図1参照)。

国防色ズボン(証二〇号)には、右裾部の後側で、すでに前の鑑定(古畑第一鑑定)で切り取つたと思われる部位に隣接したところに、〇・二×一・〇センチメートル位(原決定に〇・一×〇・四センチメートルとあるのは誤記と認められる。)の大きさで、非常にうすくにじんだような淡赤褐色のもの、その下に〇・一×〇・四センチメートル位(原決定に〇・二×一・〇センチメートル位とあるのは誤記と認められる。)の大きさで、上のものより多少濃いがやはり淡赤褐色のもの、合計二個の付着斑がある(古畑第二鑑定書付図2参照)。

古畑第二鑑定は、証一九号及び証二〇号について、右付着血痕の一つ一つを検査したものか、それともこれらを集めて検査したものか必ずしも明確でないが、その点を一応おくならば、検査方法及び結果についてさして問題となる点はない。しかし、証一九号及び同二〇号とりわけ証二〇号に付着していたという血痕が、船尾血痕鑑定のいうように、古畑第一鑑定以後に付着したものとも考えられるものであるかどうかは問題である。

そこで、証二〇号の右血痕について考察する。古畑第一鑑定では、ベンチジン試験を、それも多少なりとも血痕の付着が疑われる部分には余するところなく実施したというのに、古畑第一鑑定書には、古畑第二鑑定で認められた右二個の血痕の記載はなく、右二個の斑痕の大きさよりはるかに小さい半米粒大一個、けしの実大一個のベンチジン反応陽性の斑痕を認め、微量であるため、これらを集めてようやく血液型の判定を行つたというのである。また、古畑第一鑑定に先立つて行われた遠藤鑑定においても、ルミノール試験を実施しているが、遠藤鑑定書にも、古畑第二鑑定のいうような二個の血痕の記載はなく、遠藤鑑定は、古畑第一鑑定の右斑痕付着部位及び同鑑定が切り取られた部分があると指摘する部位(遠藤鑑定が切り取つた部分)に、ルミノール反応陽性の小斑点若干を認め、いずれも血痕量が微少であつて血液型の判定はできなかつたというのである。

右のように、遠藤鑑定におけるルミノール試験及び古畑第一鑑定におけるベンチヂン試験を経て、しかもこれら鑑定が一致して血液反応を示す各斑痕があつたと指摘するもの以外に、更にこれらよりも大きい血痕が見落され、あるいは切り残されて、二〇年を経て付着していたというのは、いかにも不自然、不合理である。加えて、色調の判断、表現には主観的なものがつきまとうとはいえ、一般に付着血痕は陳旧になるにつれて赤味が消失して行くことは否定できないので、これら血痕が淡赤褐色を呈していたということも不可解である。そうすると、古畑第二鑑定時に国防色ズボンに付着していたという血痕は、なんらかの理由で古畑第一鑑定以後に付着したものではないかとの疑いを払拭し切れるものではなく、むしろその疑いは濃いといつても過言ではない(池本証言のいうように、古畑第二鑑定時に右ズボンほか各検体は、いずれもよく乾燥しており、保存状態が良好であつたとしても、それ以前の保存状態は不明であり、あるいは、たとえば被害者の着衣と一緒に保存されていて、これに付着していた血液が移着したというようなことも、長年月の間には、考えられないわけではない。)。

旨、判示する。

(一) そこで、まず、原決定が、国防色ズボン(証二〇号)の古畑第二鑑定の被検血痕二個が遠藤鑑定、古畑第一鑑定当時存在したとみるのは困難であるとして挙げる理由のうち、これらの鑑定が血痕量が少ないため、血液型の検査ができなかつたり、又は人血試験を一部省略し、あるいは血痕を集めて血液型検査をしたりしていたのであるから(原決定が半米粒大一個、けしの実大一個のベンチジン反応陽性の斑痕というのは、古畑第一鑑定で認められた斑痕四個(遠藤鑑定が切り取つた部分の斑痕二個以外の四個)のうち、ズボン右裾の後側の二個をさすものとみられる。ズボン模型参照)、古畑第二鑑定の被検血痕のように大きな血痕を見残したり、切り残したりすることがあり得ると考えるのは不自然、不合理であるとする点について述べる。

(1)  この点について、古畑第二鑑定を担当した池本卯典は、同鑑定の血痕二個のうち、上の方の血痕については、「非常に血痕がうすかつたために、検査をおやりにならなかつたのだろうというふうに思います。見落しと申しましようか、し残しと申しましようか、わたしは、そういうふうに思います。」と、下の方の血痕については、「前の鑑定をおやりになつたときの切り残しだろうと思います。」と供述しており(池本卯典証言・一七分冊七五七の一〇五一丁裏ないし一〇五二丁裏)、同人が研究官をしていた科学警察研究所では、同所に血痕鑑定を依頼されるもののうち再鑑定が相当数あり、前鑑定において十分な鑑定がなされたということでもはや血痕が残つていないと思われるものでも、同研究所の高度の鑑定技術によつて血痕が発見され、血液型鑑定がなされることは珍しいことではなかつた。

なお、古畑第二鑑定は、国防色ズボン(証二〇号)と同様、軍隊用袴下(証一九号)についても、古畑第一鑑定の被検血痕に近接した場所である右下腿部の後側の裏側(内側)に斑痕を発見し、A型と判定(二分冊五八一丁表)しているが、これも、池本証人が証言する、再鑑定における前鑑定の見残し、切り残しの発見であつて、このようなことは珍しいことではないのである。このことは、決して前鑑定である古畑第一鑑定がずさんであつたというものではない。

(抗告審で更に立証の予定)

(2)  また、原決定は、古畑第二鑑定と遠藤鑑定、古畑第一鑑定の各被検血痕の大きさを比較し、前者が後二者より面積が大きいことを指摘しているが、前記第三、一、1、(一)、(3) 、アで述べたとおり、血痕量は、必ずしも面積の大小で決まるものではなく、その体積によつて決まるものであることに留意すべきである。血痕発見の有無を血痕の大きさ(面積)だけでみている原決定の考え方は、単純すぎ、問題がある。

(二)(1)  そして、原決定は、古畑第二鑑定の被検血痕について、それが古畑第一鑑定以後に付着したもの、すなわち、本件犯行の機会に付着したものではなく、同一由来に基づくものではないという疑問を提示しているので、その点を解明し、古畑第二鑑定の被検血痕が古畑第一鑑定の被検血痕と同一由来に基づくものであること、古畑第二鑑定の被検血痕がどのようにして付着、残存していたかということ、更に、その量は古畑第一鑑定の被検血痕より少ないが、その後の著しい技術の向上により、古畑第二鑑定が行われた昭和四六年当時の、しかも、この種血液型鑑定の技術のきわめてすぐれた科学警察研究所(所長古畑種基、古畑第二鑑定の担当者同所研究官池本卯典)によつて、その血液型鑑定が可能となつたものであることを明らかにしたい。

(2)  請求人の第四回検面調書によると、請求人は、本件犯行の約四時間後に、自宅で「国防色ズボンは、脛から下の血痕のついているところをつまみ、何れも石鹸で洗濯しました。」と供述している(二二分冊一三〇五丁裏)ところ、前述したとおり、遠藤鑑定書には、「本物件(証二〇号)が洗濯せられたとしても血液反応陽性を呈した斑点の中には、洗濯を免がれたと思はれるものがある。即ち、其の量は極めて少ないが、已記の如く多少光澤ある黒褐色の微細な塊をなして附着して居る。」と記載されている。

右遠藤鑑定書の「洗濯を免がれたものがあると思われる。」との記載の意味は、洗濯はしたが、洗濯で血痕が完全に消滅する効果があがらなかつたということと思われるが、飛沫血痕(遠藤鑑定書には「飛沫血痕の様に見え」とある。)の付着した衣類を洗濯したのに、完全に血痕を消滅させることができなかつた場合、残存血痕の態様として、衣類に飛沫血痕の外形をそのまま残しているものと、その外形が損なわれて繊維のなかに付着した形で残つているものとがある。遠藤鑑定、古畑第一鑑定の血痕は前者に、古畑第二鑑定の血痕は後者の場合に該当するものと認められる。

このように、古畑第二鑑定の二個の被検血痕は、洗濯の効果が不十分で、繊維のなかに付着、残存していたものであるので、古畑第一鑑定の血痕と異なり非常に色が淡く、にじんだようになつていたのである。この血痕の色調の点については、別に後述するが、国防色ズボン(証二〇号)の血痕は、遠藤鑑定書によると暗褐色ないし黒褐色で多少光澤のある飛沫血痕ようの塊、古畑第一鑑定書によると暗褐色の斑痕とあり、両者の表現はほぼ一致しているが、これと異なり、古畑第二鑑定書には、二個とも、淡赤褐色の付着斑と記載されている。この点につき、同鑑定を行つた池本研究官は、「いずれの血痕も色がうすく、上の方は非常に淡くにじんだようなもので、正確には淡淡淡赤褐色とでもいうべきものであり、下の方はこれより色が多少濃かつた。」旨述べている(池本卯典証言・一七分冊七五七の一〇四四丁裏、一〇四五丁表、一〇五四丁表)。

右のように古畑第二鑑定の二個の血痕は、繊維のなかににじんだように付着している非常に色の淡い血痕であるから、原決定のいうとおり、古畑第一鑑定の血痕中、ズボンの右裾の後側の血痕二個より面積は大きいが、厚みは著しくうすく、濃度もうすいもので、古畑第一鑑定の被検血痕と比較して、血痕量は当然少ないと認められるのに、昭和四六年当時、池本研究官が所属していた科学警察研究所は、血液型検査では最高の技術水準にあり、人血試験は顕微沈降反応法、血液型試験は解離試験法といういずれも超微量血痕に対する血液検査方法によつて、血液型の判定に成功したのである。古畑第一鑑定の行われた昭和二五、六年当時の技術では、到底問題にならなかつた微量の血痕をもつて、正確な血液型の判定を可能としたものである。

(抗告審で更に立証の予定)

(三) 次に、原決定は、色調の点について、付着血痕は陳旧になるにつれて赤味が消失して行くことは否定できないので、古畑第二鑑定書において、淡赤褐色と赤味がある表現をとつていることは不自然であるという。

しかし、原決定も認めているように、血痕の色の見方、その表現の仕方については、相当個人差があるものである。しかも、池本研究官によると、古畑第二鑑定の二個の血痕の実際の色調は、上の方は淡淡淡赤褐色とでもいうべきもの、下の方はこれより多少色が濃かつたというのであり、赤色は非常に淡くにじんだようであつたことが認められ、池本証人は、古畑第二鑑定書における色彩の表現は、必ずしも適切でなかつたと述べている(池本卯典証言・一七分冊七五七の一〇四四丁裏、一〇四五丁表、一〇五四丁表、一〇八二丁裏)。

血痕の色調はまた、その保存状態によつて左右されるが、古畑第一鑑定以後古畑第二鑑定までの国防色ズボン(証二〇号)の保管状況は、後述するとおり、良好であり、退色しにくい状態で保管されていた。

(抗告審で更に立証の予定)

(四) 更に、原決定が、国防色ズボン(証二〇号)の古畑第二鑑定の被検血痕は古畑第一鑑定以後移着した可能性があり、たとえば被害者の衣類と一緒に保存されたため血液が移着したというようなことも長年月の間には考えられないわけではないとする点について述べる。

(1)  古畑第一鑑定は本件犯行後一年以上経過してなされているから、その後、被害者の血液が移着したということになると、その血液はすでに一年以上経つた乾血ということとなるが、かかる血液が移着するということは、あり得ない(この点は抗告審で立証の予定)。

しかも、前述したとおり、古畑第一鑑定の血痕にきわめて近接しあるいは接着した二か所のみに偶然にも被害者の衣類の血液が移着するというようなことは到底想定し得ない。古畑第二鑑定の二個の血痕の前述のような付着位置(ズボン模型参照)や前述した洗濯の効果が不十分でその血痕が繊維のなかに付着、残存している状況、血痕の色調などからしてそれらは当然、古畑第一鑑定の血痕と同一の機会に付着した同一由来のものと認められる。

(2)  原決定は、衣類の保管状況についても言及している。そこで、検討するに、国防色ズボン(証二〇号)は、古畑第一鑑定後、他の証拠品とともに、高松地方裁判所丸亀支部で保管され、昭和二七年三月七日高松高等裁判所へ移管され、その後、有罪判決の確定によつて、同三三年五月一七日同高等裁判所から、請求人の所有にかかるものについてのみ大阪拘置所在監中の請求人に還付され、その後は請求人が使用することなく同拘置所で保管されていたが(電話聴取書・一分冊二六丁)、同四四年八月二三日請求人から高松地方裁判所丸亀支部に提出され、その後は同支部で保管されていたものである(押収調書・一分冊九〇丁表ないし九一丁表)。

そして、古畑第二鑑定は、同支部が職権により行い、国防色ズボン(証二〇号)を含む検査対象物件は、同四六年二月一七日同支部裁判官から古畑・池本両鑑定人に直接交付されたものである(鑑定人古畑種基尋問調書・二分冊五四八丁表ないし五五二丁表)。

その間、裁判所における証拠品、拘置所における在監者所有物件の保管は、厳重、かつ、慎重に行われていた。被害者の衣類、その他からの血液の移着は到底考えられない。

(抗告審で更に立証の予定)

以上述べたところにより、古畑第二鑑定の正当性は明白であり、古畑鑑定人は、同鑑定書に、「これらの検査成績は、換言すれば、二〇年前の鑑定結果(古畑第一鑑定)の正当性を裏付けるものであります。」と記載しているが(二分冊五七九丁裏)、血液学の碩学である同鑑定人の鑑定の正当性についての自信のほどを示しているものである。

以上の次第であるから、国防色ズボン(証二〇号)に付着する血痕の血液型がO型であるとした古畑第一鑑定は、その検査の方法及び結果において適正妥当であり、十分な証拠価値を有することが明らかである。これに加え、古畑第二鑑定の結果も併せ考えると、同ズボンの付着血痕の血液型がO型であることは、疑いを容れる余地がない。

原決定は「検察官の種々主張するところは、ひつきようとにもかくにも検査がなされなんらかの反応が出ているから右検査は可能であつたとみるべきであり、また、その判定結果は信用すべきものであるというに帰し、問いをもつて問いに答えるに等しいというべきである。」というが、検察官としては、決してさような安易な主張をしているものではなく、古畑第一鑑定、同第二鑑定の検査の方法と結果の判定について十分な吟味を加え、その正当性を論証しているものであつて、原決定こそ、かえつて血液型鑑定の理論と実際について十分な検討吟味を加えることなく、検察官の主張を裏付けるに足る三上血痕鑑定、池本証言をたやすく排斥し、岡嶋証言の内容を正しく理解せず、かつ、到底信用できない船尾血痕鑑定をもつぱら採用し、その結果、検察官の主張する科学的合理性を理解することができないで、誤つた判断をするに至つたものである。

よつて、原決定が新証拠としている船尾血痕鑑定、岡嶋証言は、古畑第一鑑定の信用性をなんら損なうものではなく、刑訴法四三五条六号の明白性ある証拠とは到底、認められない。

二 請求人が国防色上衣(証一八号)及び国防色ズボン(証二〇号)を犯行時に着用し、かつ、これらを洗濯したとの自白の真実性について

このことは、原決定が新証拠とする船尾血痕鑑定によつて害されるものではなく、右新証拠には明白性がない。

原決定は、請求人が国防色上衣(証一八号)及び国防色ズボン(証二〇号)を犯行時に着用し、かつ、これらを洗濯したとの自白について

請求人の第四回検面調書と司法警察員に対する昭和二五年八月五日付(第七回)供述調書を併せみると、「請求人が被害者を刺身包丁で殺害した後、自宅に帰る途中、犯行現場からほど遠からぬ帰来橋付近の財田川で、血のついた国防色上衣(証一八号)、包丁、靴の裏、手を水洗いし、更に、その後四時間位経て、血痕が残つていた右上衣及びズボン(証二〇号)を石けんを使つて洗濯した。なお、右上衣には、前の右胸のあたりに点々と二、三箇所及び一番下の方にべつとりと直径二寸位の大きさに血がついており、右袖の内側の先の方に点々と血の飛沫が五箇所位ついていた。ズボンは一番下の裾の付近(右)に点々と三箇所位血がついていたが、その他の服にはついていなかつた。」旨自白していること、一方、古畑第一鑑定によれば、右鑑定時に、右のうち証一八号及び二一号(国防色綾織軍服上衣)についてベンチジン試験(間接法)の結果は、いずれも陰性であつて、これらに血痕付着部分は認められなかつたこと、なお古畑第一鑑定に先立つて実施された遠藤鑑定によれば、同鑑定において、証一八号及び同二一号は対象物件となされてなく、したがつて、右各号は、古畑第一鑑定以前に科学検査の対象となつていなかつたことが認められる。

ところで、船尾血痕鑑定によれば、衣類付着血痕について、付着血痕量、付着後水洗い又は石けんによる洗濯までの経過時間、洗濯程度、被付着布片の種類などによつて多少異なるが、一般的には、水洗い又は石けんによる洗濯によつてルミノール試験及びベンチジン試験(直接法)は影響されないといわれており、木綿ギヤバジン織あるいはさらし木綿の各布地に血痕を付着させた後間もなく水洗いし、更に四時間後石けんを使つて洗濯し、自然に乾燥させて三箇月後にルミノール及びベンチジンによる各試験を行つたところ、ルミノール反応及び直接法によるベンチジン反応については、ほとんど影響がなく、間接法によるベンチジン試験は、反応が減弱したが、陰性化はほとんど認められず、なお、ルミノール試験後に間接法によるベンチジン試験を行うと陰性化し、直接法によるベンチジン反応にも影響がみられたので、以上の実験結果によると、血痕付着後間もなく水洗いし、その後四時間位してから石けんを使つて洗濯しても(ただし、洗い残りがないものと仮定)、ルミノール反応並びにベンチジン反応(間接法)が不可能になることはないと推測されるというのである。

これに対し、三上血痕鑑定は、鑑定資料に対する人血付着部位の広狭、付着血痕の多少、洗濯の方法(たとえばもみ洗い等)により左右され、血痕予備試験が陰性になることは否めないとするが、船尾血痕鑑定の前記実験結果は一応肯認し、ただ、石けんをつけてもみ洗いして、また石けんをつけてもみ洗いをするというような時には(反応が)出ない可能性も十分考えられると思う旨述べ(三上血痕証言速記録九七丁裏(一九分冊一六九七丁裏))、また、同人において、人血を付着させた木綿布を洗剤を使用し洗濯機によつて三回洗濯(各洗濯後に乾燥させる。)した場合でも、ルミノール及びベンチジン(直接法)各試験は陽性に反応したとし、この点に関する船尾血痕鑑定を必ずしも否定するものではない。

また、古畑種基及び池本卯典作成の昭和四六年一二月一三日付回答書(再一審記録八五八丁(三分冊八五八丁))によると、衣類などに人血液が付着した場合、付着直後乾燥しないうちに石けんを使つて二回にわたりよく洗濯すると、血痕予備検査、血痕実性検査及び人血検査が不可能となることはあり得ると考えられるが、しかし、一般にはよほど注意して洗濯しなければ、血液型抗原が繊維の間などにごく微量でもしみついて残ることがある旨、記載されている。

そうすると、船尾血痕鑑定以下右各証拠を総合すると、血痕付着後まだ、これが乾燥しないうちに、石けんを使つて二回にわたり入念にもみ洗いした場合には、ルミノールあるいはベンチジンによる予備試験が陽性に出ないこともあるが、請求人が自白するように、血痕付着後間もなく一回水洗いし、約四時間後石けんを使つて洗濯した場合には、右各予備試験が陰性になることはないものと認めるのが相当である。なお、この点について、検察官は、証二〇号に徴量の血痕が認められ、証一八号に血痕が認められなかつたのは、証一八号は犯行直後に水洗いしたのに、証二〇号は水洗いしなかつたためであろうというが、請求人の自白によれば、前示のとおり、証一八号を四時間後に石けんを使つて洗濯した際、付着血痕が残つていたというのであるから、検察官のいうところは失当である。

以上認定したところによれば、本件犯行時に国防色上衣(証一八号)を着用し、これに被害者の血液が付着したので犯行後間もなく水洗いし、更に四時間後、石けんを使つて洗濯した旨の請求人の自白は、虚偽であるとの疑いを生じ、ひいて、証二〇号についても、犯行時に着用していたとの自白に疑問を持たざるを得ず、そうすると、船尾血痕鑑定は、請求人の自白に対する最高裁の指摘する数々の疑点に更に重大な疑点を加えるものであつて、刑訴法四三五条六号にいう新規、かつ、明白な証拠にあたる。

旨、判示する。

しかしながら、血痕が付着した衣類を洗濯した場合、血痕予備検査のルミノール試験又はベンチジン試験が陰性となるかどうかは、原決定の挙げる三上血痕鑑定、古畑種基及び池本卯典の回答書、船尾忠孝の見解(特に後述の松山事件の再審請求における同人の洗濯実験)によれば、人血付着部位の広狭、付着血痕の多少、洗濯の方法、程度によつて異なるのである。

1 洗濯した国防色上衣(証一八号)の血痕予備試験が陰性になるか否かについて

そこで、血痕の付着した国防色上衣(証一八号)を請求人の自白したとおり洗濯した場合、血痕が洗い落されルミノール試験及びベンチジン試験(間接法・古畑第一鑑定における方法)が陰性になるかどうかについて検討する。

(一) 原決定にも引用記載されているように、船尾鑑定人は、請求人の自白のとおり、ギヤバジン織あるいはさらし木綿各布地に血痕を付着させたのち、間もなく水洗いをし、更に、四時間後石けんを使つて洗濯し、自然に乾燥させ、三か月後にルミノール試験及びベンチジン試験を行つたところ、いずれも陰性は認められなかつたという。

しかし、右洗濯の順序は一応請求人の自白に符合するとしても、洗濯の方法・程度が合致しているかどうかは問題である。すなわち、右実験では、最初の水洗いは流水中で五分間行い、そのあとの石けんを使つた洗濯は二回にわたつて、それぞれ石けんをつけ五秒間ずつもみ洗いしたというにとどまる(船尾忠孝証言・一六分冊七五七の三八八丁表裏)。これに対し、請求人は、第四回検面調書において、犯行直後の水洗いについては、「進駐軍放出物資の上衣などを洗い」と述べている(二二分冊一三〇四丁表)だけであるので水洗いの点はさして差異がないとしても、約四時間のちの石けんを使つた洗濯については、「国防色進駐軍用上衣は丸づけにし、国防色ズボンは脛から下の血痕のついているところをつまみ、何れも石けんで洗濯しましたが、右の上衣は特に血のついていた胸とすそ、右そで等を特別入念に洗つて竿に干したのであります。」と供述しているのであり(二二分冊一三〇五丁裏)、船尾鑑定人の洗濯実験のように、五秒間ずつ二回もみ洗いをした程度では決してない。

(二) この点について、三上証人は、「石けんをつけて、また、石けんをつけてもみ洗いをするというようなときには、反応が出ない可能性も十分考えられると思う。手でもみ洗いをするということは、洗濯の方法としては、洗濯機で洗うより、繊維の中にしみこんだ血痕を完全に落すことができる点で優れている。」旨(三上芳雄証言・一九分冊一六九六丁表ないし一六九七丁裏)証言しているが、これは、請求人の自白の洗濯方法に近いものと考えられる。請求人の自白のとおり、血痕付着後間もなく水洗いし、更に四時間後に丸づけにして石けんで入念に洗濯した場合、状況により血痕予備試験が陰性になることは否めない旨の三上血痕鑑定書の記載(一三分冊七五六の一〇三九丁表)は、正当と認められる。前記古畑種基及び池本卯典の回答書も、同趣旨と解される。原決定は、三上鑑定人が右の点に関する船尾血痕鑑定(船尾洗濯実験の結果)を必ずしも否定するものではないとしているが、三上鑑定人は、船尾洗濯実験の方法が請求人の自白する洗濯の方法・程度と同一又は近似していると認めているものではないので、原決定の右指摘は正しくない。

(三) 船尾鑑定人は、いわゆる松山事件(斉藤幸夫の強盗殺人非現住建造物放火事件)の被告人が犯行当時着用していて血痕の付着した衣服を洗濯し、その衣服が同人の検挙後鑑定され、ベンチジン試験で陰性と判定されたケースについて、同事件の再審請求審理の際、本件と同様の鑑定をしているが、洗濯実験(白木綿に血液を付着させ、一時間後に石けんで約一〇分間入念に洗濯)の結果、ベンチジン反応は、直接法では陽性であるが、間接法では陰性となつたと証言していることに留意すべきである(この点は抗告審で立証の予定)。すなわち、船尾鑑定人は、血液が付着した衣類を洗濯実験した結果のベンチジン反応につき、本件においては、間接法でも陰性になることはないと鑑定する一方で、右松山事件においては、間接法ではそれが陰性になるといつているのであつて、矛盾もはなはだしく、ひいては、本件船尾血痕鑑定全体の信用性にも多大の疑念を抱かせることになるといわなければならない。

(四) 以上述べた洗濯が血痕予備検査の結果に与える影響に関し、前記のとおり、原決定が「血痕付着後まだ、これが乾燥しないうちに、石けんを使つて二回にわたり入念にもみ洗いした場合には、ルミノールあるいはベンチジンによる予備検査が陽性に出ないこともある。」と認めながら、「請求人が自白するように、血痕付着後間もなく一回水洗いし、約四時間後石けんを使つて洗濯した場合には、各予備試験が陰性になることはないものと認めるのが相当である。」としているのは、理解に苦しむ。本件の場合、国防色上衣(証一八号)については、血痕付着後間もなく水洗いした上、約四時間後に石けんを使つて特別入念に洗つているので、陽性に出ないことは当然、あり得るとみられるのである。

2 右に関する原決定の判断に対する反論

原決定が「検察官は、証二〇号に微量の血痕が認められ、証一八号に血痕が認められなかつたのは、証一八号は犯行直後に水洗いしたのに、証二〇号は水洗いしなかつたためであるというが、請求人の自白によれば、前示のとおり、証一八号を四時間後に石けんを使つて洗濯した際、付着血痕が残つていたというのであるから、検察官のいうところは失当である。」という点は、昭和五三年一二月一一日付検察官意見書四二頁の「証二〇号に微量の血痕が認められ、証一八号に血痕が認められなかつたのは、証一八号は犯行直後帰来橋下で水洗いしたのに、証二〇号は同所で水洗いしなかつた(第四回検面調書・確定記録一三〇四丁表)ため、証二〇号の血痕が乾固し、約四時間後、これに石けんをつけて洗つても微量の血痕が残つたものと思われる。」との部分を指しているものと思われる。しかし、右記載自体で明らかなように、検察官が「証二〇号に微量の血痕が認められ、証一八号に血痕が認められなかつた」というのは、古畑第一鑑定の結果のことをいつているのであつて、犯行の約四時間後の水洗いの際に血痕が認められたか否か、請求人が血痕の付着していることを目で見たかどうかをいつているのではない。原決定は、明らかに検察官の意見をとり違えている。証一八号と証二〇号に右のような洗濯方法の相違があつたため、古畑第一鑑定で、前者は血痕予備検査が陰性、後者はそれが陽性と反応したのである。

3 古畑第一鑑定以前にルミノール試験が実施されていたことについて

(一) 前記のとおり、原決定の引用する船尾血痕鑑定の洗濯実験においては、ルミノール試験を行つたのち、ベンチジン試験を実施すると、間接法では陰性を示し、直接法でも影響がみられたというのである。

ところで、原決定は、国防色上衣(証一八号)及び国防色綾織服上衣(証二一号)は遠藤鑑定の対象とされておらず、したがつて、右各号は、古畑第一鑑定以前には科学検査の対象となつていなかつたと認定しているが、原決定の右認定は誤つており、国防色上衣(証一八号)及び国防色綾織軍服上衣(証二一号)は、遠藤鑑定の対象物件とされ、同鑑定でルミノール試験を受けていたことが、岡山大学の関係文書(遠藤鑑定書・二〇分冊一四九丁表ないし一五九丁表、抗告審で更に立証の予定)及び高松地検丸亀支部の領置票備考欄の記載(一分冊一九五丁表)により明らかとなつた。そして、右ルミノール試験の結果は、陰性であつたものと認められる。

(二) このように、国防色上衣(証一八号)及び国防色綾織軍服上衣(証二一号)は遠藤鑑定においてルミノール試験を受けていたのであるから、船尾血痕鑑定のいうようにルミノール試験をともなわない船尾洗濯実験の結果をもつて判断することは適切ではなく、ルミノール試験をともなつた同実験の結果が援用されなければならないが、その結果は、ベンチジン間接法では陰性というのである。このことから、証一八号が古畑第一鑑定でベンチジン試験(間接法)陰性(証二一号は、証一八号の下に着用しており、したがつて、血痕の付着するおそれはないので問題外)を示しているのは、右ルミノール試験のためと認められる。

(三) 右証一八号の遠藤鑑定のルミノール試験の結果が陰性であつたことについて、言及する。

船尾証言によると、血液を稀釈した場合の反応の鋭敏度は、ルミノールはせいぜい五千倍から一万倍であるが、ベンチジンは一〇万倍ないし二〇万倍で、ルミノールはベンチジンに比し著しく低いこと、また、平島侃一の血痕付着物件の洗濯実験の結果報告(「水浸により処理された血痕の血痕検査実績」、″科学と捜査″昭和二七年五巻二号七三頁ないし八五頁)によると、木綿、ラシヤ、絹について入念洗濯(各材料に血痕を付着し自然乾燥した上、三週間ないし五週間後、肉眼で血痕部が見えない程度まで水道水でもみ洗いし、二パーセントの石けん水で一時間水洗)をした場合、ベンチジン試験は疑陽性であるが、ルミノール試験はすべて陰性であることが明らかであり、請求人の自白するような洗濯の方法などの状況であれば、ルミノール試験が陰性になるのは当然であると認められる(この点は抗告審で立証の予定)。

以上述べたところにより、証一八号、証二〇号の洗濯についての請求人の自白に疑問を持たざるを得ないとする原決定の判断は明らかに誤つており、原決定が新証拠としている船尾血痕鑑定(船尾洗濯実験)は、請求人の自白の真実性を害するものではないので、刑訴法四三五条六号の明白性ある証拠とは到底、認められない。

三 船尾鑑定人の鑑定態度及び鑑定結果には信用性を認めがたいことについて

前記第三、一及び同二において、船尾血痕鑑定が刑訴法四三五条六号の明白性ある証拠とは到底、認められないゆえんを論じたが、更に船尾鑑定人の鑑定態度及び鑑定結果には一般に信用性に欠ける面の多いことについて述べる。

この点については、すでに原審の検察官意見書において、船尾鑑定人が古畑第一鑑定の検査成績表における凝集素の濃度につき、実際検査を行つた岡嶋証人らの証言と異なる、法医学上非常識とさえみられかねない証言をしていること(昭和五三年一二月一一日付検察官意見書一八頁、一九頁)及び同鑑定におけるMN式血液型の判定可能期間に関し、他事件で述べた同事項の証言と明らかに矛盾する内容の証言をしていること(同意見書四三頁、四四頁)等を指摘し、また、前記第三、二、1、(三)でも松山事件との対比において同様の指摘をした。

そのほかにも、たとえば、〇・一ミリグラム以下の微量血痕によつても、血液型の判定が可能であるとする金沢大学安田利治の前記文献「微量血痕の血液型検査に就いて」に関する検察官の質問に対し、船尾証人は、「どういう文献かは知らないが、〇・一ミリグラムでは血痕検査はできない。昭和二六年ごろ〇・一ミリグラムという量は量れるはずがなく、それだけでいかに怪しい文献であるかわかる。」旨(船尾忠孝証言・一六分冊七五七の四五九丁表ないし四六〇丁裏)述べ、自らその文献を読んでいないのに、素人のような理屈で文献の価値を否定しているが、その態度は、きわめて偏執的で、科学者としての姿勢に問題なしとしない。同文献は、長さ一センチメートルの糸状の繊維一本に付着する血痕を〇・一ミリグラムとして論じているのである。また、成傷器に関する船尾鑑定が信用しがたいことについては、右意見書四四頁ないし六五頁で詳しく述べたが、要するに、鈍器による創傷以外の被害者の創傷の成傷器は、請求人の自白する刺身包丁であるとして合理的であるのに、船尾鑑定人は、刺身包丁の単一の成傷器として説明することは困難であるとし、各創傷ごとに、右側頭部表皮剥脱四個(上野鑑定書(二〇分冊一三一丁表ないし一四八丁表)の創傷番号(三))は先端に比較的尖つた部位四か所をもつ鈍器、右口角部刺切創(同鑑定書の創傷番号(八))は先端及び稜角が比較的尖鋭な三角錐のような形状の刺器、又は先端が比較的尖鋭で弧状をなした刺器、左乳嘴右上部刺切創(同鑑定書の創傷番号(三))は断面が湾曲し、その辺縁が比較的尖鋭な刺器である(船尾創傷鑑定書・一一分冊七五六の三五四丁裏ないし三五六丁表)として、実際には存在しないような複数の凶器を次々と述べており、その不自然、不合理なことは明白である。これには、原決定も一顧だに与えていないので、検察官として更に、詳しく論じないが、そもそも船尾鑑定人の鑑定の態度とその結果がいかに信用しがたいかを明瞭に物語つているものといえる。

第四原決定が新証拠としている捜査状況報告控等について

原決定が犯人しか知り得ない秘密性をもつた自白と認められる二度突きの自白の反証として新証拠としている「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」と題する書類綴中の昭和二五年三月一日午後九時三〇分国家地方警察(香川県)本部受信財田村捜査本部発信の電話通信用紙、同年三月一一日付香川県警察隊長作成名義国警本部捜査課長及び広管本部刑事部長に対する「強盗殺人事件発生並に捜査状況報告控」及び同年三月九日提出の旨記載の「強盗殺人事件発生並捜査状況報告案」(以下右三通の書類を「捜査状況報告控等」という。)は、単に当時の捜査経過の概況を知り得る資料にすぎないものであつて、宮脇豊警部補が二度突きのことを知らなかつた事実をいささかも動揺させるものでないばかりか、かえつてその事実を裏付けさせるものといえるから、刑訴法四三五条六号にいう無罪を言い渡すべき明らかな証拠ではない。

原決定は

最高裁決定は、同決定が五留意点の一つとする自白の真実性の吟味にたえ得る秘密性を持つ具体的事実としての二度突きの自白(刺身包丁を一度突き刺した上、刃を全部抜かないまま、同じ箇所をもう一度突いたという自白)は、二度突きによつて生じたもののようにみられる創傷の状況、すなわち、被害者の胸部の刺切創が外部所見では一個しかないのに、内景では二個の刺創に分かれている旨を記載した上野博作成の鑑定書が捜査官に交付された昭和二五年八月二七日以前の日付の宮脇警部補に対する各供述調書においてなされているのであるから、右のような真犯人でなければ知り得ない秘密性を持つ事実を鑑定書到着前に請求人が自白したとすれば、その供述は信用性も高く、凶器が発見されなくても、有罪認定の有力な証拠として評価されるが、当時捜査に従事していた者のうち、署長(国警香川県三豊地区警察署長)藤野寅市警視は、二度突きのことは死体解剖に立会つていたので知つていたというのであり、また、犯行の翌日行われた右死体解剖には、右藤野と三谷(同署捜査主任三谷清美警部補)、松村(県本部鑑識課長松村猛夫)の三名の警察官が立会い、鑑識課の技術吏員が鑑定人の口授するのを傍らで筆記していたというのであるから、更に、宮脇警部補とともに請求人の取調べに従事していた広田巡査部長(県本部刑事部捜査課広田弘)の証言にも照らし、宮脇警部補が解剖に立会つていなかつたのが事実であるとしても、捜査係官のうち重要な役割をになつていた同人のみが、二度突きのことを知らなかつたというのは、甚だ訝かしいことといわざるを得ず、二度突きの事実が犯人しか知り得ない秘密性を持つ事実であつたことをたやすく肯定できないとしている。

ところで、右二度突きの自白の点に関する差戻決定後の証人広田弘の証言(昭和五三年五月二九日施行)は、最高裁決定が指摘する再一審における同証人の証言に対する反証となるべきものであるが、右再一審証言等従前の記録にあらわれた各証拠のほか、次に指摘する点とも対比し、措信できない。

次に、弁護人側が当時捜査官らに右創傷の状況が周知されていたことを明らかに示す新証拠として主張する、昭和二五年三月一日午後九時三〇分国家地方警察(香川県)本部受信財田村捜査本部発信の電話通信用紙(以下「電話通信用紙」という。)、昭和二五年三月一一日付香川県警察隊長作成名義国警本部捜査課長及び広管本部刑事部長に対する強盗殺人事件発生並に捜査状況報告控(以下「警察隊長捜査報告控」という。)及び昭和二五年三月九日提出の旨記載の強盗殺人事件発生並捜査状況報告案(以下「捜査報告案」という。)(以上いずれも検察官から当審において提出された「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」と題する書類綴中のもの)について検討する。右三通の書面(捜査状況報告控等)は、いずれも本件の捜査当時作成されたとみられる「(二)財田村強盗殺人事件捜査書類捜査課」と題する書類綴中のもので、当時の捜査状況の経過を伝えるものとして、信用性のかなり高いものと認められる。このうち電話通信用紙には、昭和二五年三月一日午後九時三〇分財田村捜査本部発信として「解剖は午後九時終了した。目下会議中」と記載されている。警察隊長捜査報告控には、死体解剖所見の項に「2解剖日時三月一日自午後四時至午後八時三〇分」「3解剖所見の概要(創傷部位)」「(ロ)胸部左胸部第四肋骨の間に長さ二糎大の創傷あり(深さ左胸腔に突き抜け左肺の左上葉に二箇所の傷あり)」「5参考資料、死後十二時間乃至四十八時間経過して居り、胃の内容物の消化状況より食事後七、八時間経過と認められる。」と記載されている。また、捜査報告案には、警察隊長捜査報告控と同旨の記載があり、その起案者欄に「田中」の署名があるが、右「田中」とは、本件捜査従事者中、広田巡査部長、宮脇警部補とともに請求人の取調べにあたつていた田中晟警部(県本部刑事部捜査課強行犯係長)であると認められる。

これらの証拠によれば、被害者の死体解剖直後ころから財田村捜査本部で捜査会議が開かれ、その場で解剖の結果が報告され、捜査係官らに二度突きによつて生じたとみられる創傷の状況が周知されていたことを窺わせるに十分であり、また、右田中晟警部が当時右創傷の状況を知つていたことが明らかである。

これらの点からすれば、捜査係官らのうち重要な役割をになつていた宮脇警部補ひとりが二度突きのことを知らなかつたというのは(なお、同警部補が「被害者の解剖の結果、午前二時ころの犯行で……捜査をしていた」と述べていること(再一審における同人の証言)から考えても。)、ますますもつて奇異の感を強くする。そうすると、右の各証拠(捜査状況報告控等)は、最高裁決定が指摘する請求人の二度突きの自白の秘密性に対する疑惑を、更に決定的に深めるものであり、刑訴法四三五条六号所定の新規、かつ、明白な証拠にあたる。

旨、判示する。

すなわち、原決定は、捜査状況報告控等によつて、昭和二五年三月一日上野博執刀の死体解剖に続く捜査会議における報告により、最高裁決定・原決定のいう二度突き(刺身包丁を一度突き刺した上、刃を少し引き、全部抜かないまま、もう一度突いたこと)によつて生じたとみられる創傷の状況、ひいてはそのような二度突きの事実が捜査員に周知されていたとみられる上、宮脇警部補とともに請求人の取調べにあたつていた田中晟警部は、自らその起案者欄に「田中」と署名している捜査報告案によつて、右二度突きの事実を知つていたと認められ、同じく宮脇警部補とともに請求人の取調べにあたつていた広田巡査部長も、同人自ら差戻前の一審証言で認めているように、右二度突きの事実を知つていたものと認められるのであるから、捜査官のうち重要な役割をになつていた宮脇警部補のみが、右二度突きの事実を知らなかつたというのは、奇異の感を強くするというのである。

しかしながら、右原決定の判断は失当であり、到底承服しがたい。

一 二度突きの自白に至るまでの経緯

この点を明らかにするため、まず、本件発覚から請求人の二度突きの自白に至るまでの経緯について、概観する。

1 昭和二五年二月二八日午前二時ころ本件が発生し、同日午後五時ころこれが発覚するや、直ちに捜査本部が財田村の現地に設置され、藤野寅市三豊地区署長が本部長、則久久一同署次席が本部長補佐、同署三谷清美警部補が捜査主任となり、このほか国警香川県本部から派遣された同本部刑事部捜査課市田山一松警部補、松村鑑識課長、岡同課次席が加わり、本件捜査を指揮した。そして、翌三月一日朝から夕方にかけて、三谷捜査主任及び鑑識課係員らによる犯行現場の検証が行われ、同日夕方から夜にかけて、岡山大学助教授上野博鑑定医による被害者香川重雄の死体解剖が行われた。同死体解剖に際しては、同大学の今村静生が鑑定医の所見を筆記し、また、鑑識課係員村尾順一がその要点をメモした。

右死体解剖後、同日午後九時ころから近くの善教寺において、上野鑑定医から約二〇分間にわたつて解剖結果の報告がなされた。これに出席したのは、藤野署長、則久同居次席、三谷同署捜査主任、松村鑑識課長、岡同課次席、市田山警部補ら捜査幹部であつた。

その際、上野鑑定医が報告した内容は、多数の創傷の部位程度を概観した上、創傷の大部分が有刃尖器による刺切創で、他殺であり、死因は一応失血死と考えるのが相当であり、死後の経過時間は四八時間から二四時間であるが、胃の内容物からみた推定犯行時刻は、二月二八日午前一、二時ころというものであつた。

問題の外部所見では一個であるのに、内景の肺において二個に分かれる左胸部の創傷については、多数の創傷のなかで触れられたが、その創傷がどのような方法でできたかの説明、論議はなく、出席した捜査幹部は、右のような創傷の存在自体についての認識を得たものの、その創傷の成因までは分からず、これについて検討がなされた事実はなかつた。

そして、上野鑑定医が帰り、藤野署長らは、翌日からの人員配置、捜査費用、食糧の確保などの打合せをした。

また、本件発覚後間もなく、非常招集により三〇数名の署員が動員され、財田村を中心とする広範囲にわたつて、遺留品の捜索、犯人の足取りなどの聞き込み捜査が実施された。(宮脇豊証言・三分冊八九三丁裏、藤野寅市証言・三分冊一〇二八丁裏、一〇三五丁表、検証調書・二〇分冊六九丁表、上野鑑定書・二〇分冊一三二丁裏、香川ツネ証言・二〇分冊二〇四丁表、抗告審で更に立証の予定)

2 田中晟警部、広田弘巡査部長及び宮脇豊警部補は、いずれも、右死体解剖及び善教寺の捜査会議には、加わらなかつか。

(一) 田中警部は、前述したとおり県本部刑事部捜査課強行犯係長であつたが、当時、他の事件の捜査事務、殊に昭和二四年一二月一八日発生し、すでに犯人を検挙していた長尾町強姦殺人事件の捜査経費の獲得につき国警本部へ上申のため上京の準備をしていたなどの事情があつて、本件の捜査指揮を部下の市田山一松警部補に任せていた。田中警部は、本件について、昭和二五年三月九日付の捜査報告案を自ら作成しているが、その後、ほどなく同年三月二三日発生した小豆島池田町殺人事件の捜査に出動したので、本件捜査には、前後を通じ実際上、ほとんど関与していなかつた(宮脇豊証言・三分冊八九三丁裏、二三分冊三〇二丁表、田中晟証言・二一分冊四五四丁裏、抗告審で更に立証の予定)。

(二) 広田巡査部長は、県本部刑事部捜査課員で、市田山警部補、奥田巡査部長とともに、本件発覚直後、現地に派遣されたが、本部班ではなく外回りの聞き込み班に所属していたものであり、そのうちに田中警部とともに、前記小豆島池田町殺人事件の捜査に従事するようになつたので、本件捜査の詳細を知る立場にはなかつた(広田弘証言・三分冊七七五丁裏ないし七七六丁裏、一七分冊七五七の七八七丁表裏、七九〇丁裏)。

(三) 宮脇警部補は、本件発生当時、三豊地区警察署高瀬警部補派出所所長で、管内の駐在所一一か所の勤務員を含め、二〇数名の部下を指揮監督する立場にあつたが(宮脇豊証言・三分冊八七五丁表)、前記非常招集を受け、他の警察官とともに、二月二八日夜から現地に赴き、捜査応援をした。しかし、同警部補は、犯行現場が高瀬警部補派出所管内ではなかつたので、本件捜査の中枢の立場ではなく、一般動員された他の署員と同様、応援という形で、遺留品の捜索、犯人の足取りの聞き込みなどの外回りの捜査を行つていたにすぎなかつた。まして、自己が将来、本件捜査の主任となることは、予想もしなかつた(宮脇豊証言・二三分冊三〇八丁表裏、藤野寅市証言・三分冊一〇三〇丁表、一〇三五丁表、抗告審で更に立証の予定)。

3 宮脇警部補は、昭和二五年三月中は、右のような立場で本件捜査の応援に従事していたが、自己の聞き込みの結果、犯人が地元の者ではないかとの疑いを抱くようになつた。同警部補は、同年四、五月は、広島で行われた研修に参加したため本件捜査から一時遠ざかり、同年六月復帰し、再び本件捜査に加わつたが、被害者周辺の聞き込みの結果、地元のなかでも、特に請求人に容疑が濃いと思うようになつた。そこで、同警部補は、六月中ころ、藤野署長にその旨報告したところ、同署長から請求人の取調べを指示され、高瀬警部補派出所で請求人の取調べをすることとなつた。しかし、捜査本部は引き続いて本署におかれ、請求人の取調べ以外の捜査はすべて、捜査本部において行う態勢で捜査が進められた(宮脇豊証言・三分冊八八九丁裏ないし八九四丁表)。

宮脇警部補は、同年六月二一日以降請求人の取調べを行つたが、はかばかしい成果は得られなかつた。そこで、七月二〇日ころ、なお前記小豆島池田町殺人事件を捜査中の田中警部及び広田巡査部長が、藤野署長の要請によつて、請求人の取調べを応援することになり、高瀬警部補派出所に来所して、数日間、請求人を取調べた。このようにして、宮脇警部補は、請求人の取調べについて、田中警部らの応援を受けたが、請求人が自白するようになつてからは、宮脇警部補において具体的な取調べを行つて詳細な供述調書を作成したのであり、その間、田中警部らは、ほとんど請求人の取調べに関与しなかつた(田中晟証言・三分冊八〇五丁裏、八一三丁表ないし八一四丁表、宮脇豊証言・三分冊八九五丁表ないし八九六丁裏、八九八丁裏)。

そして、宮脇警部補は、七月二六日と二七日、三回にわたつて、請求人の自白調書を作成したが、その段階では、いまだ二度突きの自白はなかつた。七月二九日の宮脇警部補の取調べに対して請求人から初めて二度突きの自白がなされ、「心臓を刺して完全に殺してやろうと思つて、胸の「シヤツ」(香川の)を左手で除け(横に開いたと思う)、心臓の位置と思われる乳のあたりを包丁の切れる方を横に(左の方)向けて大体五寸位の深さに突き刺しましたが血が出てこなかつたので、心臓までとどいていないのかと思いまして、突き刺した包丁を二寸位手もとに引き、更に突いたのでありますが、突いた深さや方向は、変つていないと思います。」との自白調書(第五回警察官調書・二二分冊一一六二丁裏ないし一一六三丁裏)を作成した。

宮脇警部補は、「突き刺した包丁を二寸位手もとに引き、更に突いた」という刺し方、すなわち最高裁決定・原決定のいう「刺身包丁を一度突き刺した上、刃を少し引き、全部抜かないまま、もう一度突いた」という態様の二度突きの自白の内容が、きわめて特異であり、捜査経験豊かな同警部補も、こういう特異な二度突きのことを自らの捜査経験上も、また、知識の上でも知らなかつたので、不思議に思い、本署の捜査本部に電話で確認したところ、被害者の左胸部の創傷の状況と合致することが判明した。同警部補は、更にその後も、請求人の供述の真偽を確かめるため、コンニヤク五、六丁を買い、これを袋に入れ、高瀬警部補派出所小使室において自ら実験を行い、その結果、右自白どおり犯行が可能であることが分かり、請求人の自白の真実性を確信したものである。

田中警部及び広田巡査部長は、宮脇警部補から右のような態様の二度突きの行為を含む請求人の自白の内容について報告を受け、その後、両名自ら請求人を再度取調べて、同警部補の報告どおりの自白を請求人がしていることを確認した。宮脇警部補は、藤野署長にも同様の報告をし、同署長も、右のような態様の二度突きの自白は特異な内容の自白であり、しかもその自白は、問題の被害者左胸部の創傷の状況と一致しているので、その自白は、犯人しか知り得ない秘密性をもつた自白であると思い、捜査に自信を深めたのである。

(抗告審で更に立証の予定)

二 原決定の判断についての検討

以上の事実関係に基づいて、原決定の判断について検討する。

1(一) なるほど、捜査状況報告控等によつて、昭和二五年三月一日行われた被害者の死体解剖の結果、外部所見では一個であるのに内景が二個となつている左胸部の創傷の存在が明らかになつており、また、死体解剖後の捜査会議において、該創傷について、上野鑑定医の報告が行われた。これらの事実から、右捜査会議に出席した警察官らが、被害者の左胸部の特殊な創傷の状況を認識したとしても、これをもつて直ちに、同人らが、犯人が最高裁決定・原決定のいうような態様の二度突きをした事実を知つたとする原決定の判断は、誤つている。

すなわち、死体解剖の際、上野鑑定医は、解剖しながら鑑定所見を口述し、前述のとおり補助者に筆記させており、そのなかに問題の左胸部の創傷も含まれているが、その際は、死体の全般にわたつて、外部所見と内景とに分けて別々に、創傷の部位、程度を口述するにとどまり、右問題の創傷の特殊性(外部では一個であるのに、内景の肺において二個に分かれる。)について、特段の説明はしていないので、解剖に立会つた警察官らが、右創傷の特殊性について認識を得ることはなかつた。右解剖に続く善教寺の捜査会議における上野鑑定医の報告により、同会議に出席した警察官らは、前述したとおり、右の特殊な創傷の存在について認識を得た。しかし、右のような外部が一個で内景で二個に分かれるという特殊な創傷は、本件の捜査、裁判の結果、明らかになつた、最高裁決定・原決定のいうような態様の二度突きによつても生じるが、抵抗して激しく動くなどの被害者の身体の動静によつても生じることもあり、また、犯人が二度突き刺す場合であつても、刃物を被害者の身体から全部抜いて再度刺し、二度目の刺入口が偶然に一度目のそれと一致し、刺した刃の方向が異なる場合にも、本件にみられるような特殊な創傷が生じ得るのである。

したがつて、右の特殊な創傷の認識が直ちに、最高裁決定・原決定のいうような態様の二度突き、すなわち一度刺した包丁をその刃の一部が被害者の身体内に残る程度に引き抜き、そのまま再度刺した刃の方向が異なるというような特異な刺し方の二度突きにのみ結びつくものではない。こういう特異な二度突きの方法は、右のような特殊な創傷を認識していた経験豊かな捜査官といえども、たやすく考え想像できる事柄でない。こういう特異な態様の刺し方は、犯人の自白があつて初めて分かり、捜査官としても、そのとき初めてそうであつたのかと気付く特異な事柄なのである。司法解剖の経験豊かな鑑定医でも、本件死体解剖の結果だけから、本創傷の成因を的確に判断できないので、上野鑑定医としても、本創傷の成因について、警察官に対し、なんの説明もしていないのである。

(抗告審で立証の予定)

(二) 最高裁決定は「藤野署長の証言によれば、被害者の心臓(解剖結果から左肺と認められる。)を二度突きしていることは、死体解剖に立会つていたので知つていた。」と指摘しているが、同人の証言は、「(問)被害者の心臓を二度突きしていることは知つていたのですか。(答)はい。死体解剖に立会していたので知つています。」(三分冊一〇三五丁表)というのであつて、同人が二度突きの態様まで認識し、これを最高裁決定・原決定のいう特異な態様の二度突きの方法と認識していたわけではない。同署長としては、二度突きの態様までは、考え及ばなかつたのである。同署長は、二度突きのことについて、右の程度の考えをもつていたに過ぎなかつたことからも、捜査員にはこのことはなにも話していなかつたのである

(抗告審で立証の予定)。

(三) 最高裁決定は「二度突きによつて生じたもののようにみられる創傷の状況」、また、原決定は「二度突きによつて生じたとみられる創傷の状況」と判示しており、右各決定にいう二度突きとは、「刺身包丁を一度突き刺した上、刃を少し引き、全部抜かないまま、もう一度突く」という態様の二度突きを指していることは明らかであるが、両決定は、本創傷の状況が直ちにそのような態様の二度突きにのみ結びつくもの、すなわち、本創傷の状況を認識すれば、それが右のような特異な態様の二度突きによつて生じたものと推定するのが当然であり、また、警察官もそのように推定したはずであるという誤つた判断に立つたものといわなければならない。

(四) また、この種凶悪事件の捜査の初期においては、警察としては、まず犯人検挙のため必要な資料、たとえば現場遺留品、凶器の種類、胃の内容物、その消化程度、犯行推定時刻などに留意し、それらを参考資料として犯人の足取り捜査、聞き込みなどに全力を傾注するものであつて、被害者の創傷についていえば、凶器の種類は何か、どのような種類の刃物で刺したか、いかなる鈍器で殴つたかというような大まかなことに関心を示し、本件につき以上で述べたような凶器の細かい用法にまで深入りして検討する余裕はないはずである。これが捜査の実情であつて、本件における死体解剖やそれに続く捜査会議などにおいて、そういう細部まで検討された形跡はなく、このことは、その当時の警察官らの認識の内容をみる上で留意すべき点である(抗告審で立証の予定)。

2 田中警部の本件捜査関与の状況については、前記第四、一、2、(一)、3で述べ、また、同人が自ら作成した捜査報告案の記載の内容は原決定のいうとおりである。

たしかに、問題の被害者左胸部の創傷について、捜査報告案には「(ロ)胸部左胸部第四肋骨の間に長さ二糎大の創傷ある深さ左胸腔に突き抜け左肺の左上葉に二箇所の傷あり」(九分冊二七四丁裏、二七五丁表)と記載されているが、それは外部所見では一個であるのに、内景の左肺において二個に分かれる左胸部の創傷の存在を記載しているだけのことであつて、その成因についてはなんら触れられていない。右の記載から田中警部が、最高裁決定・原決定のいうような態様の二度突きの方法を推定し認識していたものとはいえないことは、前記1で述べたところと同じである。

のみならず、田中警部は、本件捜査には実際上、前後を通じほとんど関与していなかつた(前記第四、一、2、(一))ことに加え、同人が作成した捜査報告案は、事務規則に基づく国警本部及び広島警察管区本部に対する行政報告文書であつて、その報告事務は、県本部刑事部捜査課強行犯係長の担当事務とされていたため、同係長であつた田中警部が起案したというだけのものである。田中警部は、現地捜査本部からの報告文書やわからない事項については現地に電話で照会するなどして、起案をまとめたにすぎない。つまり、そのかぎりでは、実質的な捜査担当者又は捜査指揮官ではなく、文書作成事務係にすぎなかつた。問題の被害者左胸部の創傷のことについても、鑑識課保管の死体解剖立会に関する書類(前述のように、鑑識課係員村尾順一がメモしたもの)を見て記入した。このような状況であつたから、原決定がいうように捜査報告案をもつて、田中警部が、実質的に本件捜査に深く関与し、かつ、問題の被害者左胸部の創傷の状況を十分、自己のものとしてそしやく、認識していたとすることはできない。まして、同警部が最高裁決定・原決定のいうような態様の二度突きの方法を推定、認識したといえないことは、右に述べたとおりである。

(抗告審で立証の予定)

3 次に、広田巡査部長について、原決定は、原審における広田弘の証言は、最高裁決定が指摘する再一審における同人の証言の反証となるべきものであるが、同証言など従前の記録にあらわれた各証拠のほか、捜査状況報告控等とも対比し、措信できないというか、捜査状況報告控等のことについては、すでに述べたとおりであり、また、原決定は、再一審における同人の証言の趣旨を曲解し、その結果、同証言を補強する原審における広田証言の評価をも誤つたものといわなければならない。

この点については、すでに昭和五三年一月一二日付検察官意見書一〇六頁ないし一〇八頁、同年一二月一一日付検察官意見書八五頁において、指摘したが、再一審における広田証言は、「(問)谷口が自供したというが、この時点であなたは真実の自供だと今も思うのですか。(答)そら、本人でなければ言えない点であると思いますが、これは被害者は胸を刺されて死ぬということでしたが、胸を刺されたことについて、被疑者の自供では、刺身包丁で刺したが血が出んので、再び刺したが血が出んので、これは死んだと思つたと言つたのです。鑑定せられた医者の話では、包丁がV型になつとるのはどうも納得できんと言つたということを外の者から聞いて、それだつたら二度突いたのでそうなつたのだろうと私等は思ったのです。(問)あなた等はそういうことを知つていて、それに合うように谷口に押しつけて自供させたのではないですか。(答)そんなことはないです。谷口の兄も警察官で同僚の兄弟が凶悪犯罪の被疑者になるということは、絶対に忍び難いことで出来れば本人でないといいがと田中さんとお互いに言つていたのです。(中略)(問)当時として取調べに当つて本人でなければわからんことを自供したのですか。(答)はい。」(三分冊七八三丁裏ないし七八四丁裏)というのであつて、この証言の趣旨は、すでに詳しく述べた本件捜査の全経過等からみても明らかなように、鑑定医が創傷がV型になつているのは納得できないといつたということを広田証人はほかの者から聞いたこと、同証人等としては、請求人が最高裁決定・原決定のいうような特異な態様の二度突きをしたことは、請求人の自供により初めて分かり、犯人でなければ知り得ない秘密性をもつた真実の自白と思つたこと、この自白を得て鑑定人のいつていたというV型の創傷の成因の疑問が解け、右のような二度突きによるものであることが分かつたということであつて、解剖当時又は請求人の自白以前に、広田証人が右のような態様の二度突きの方法を推定、認識していたというものでないことは明白である。前述したように、最高裁決定・原決定は、V型の創傷(外部所見では一個で内景で二個の創傷)の認識即最高裁決定・原決定のいうような態様の二度突きの推定、認識という誤つた判断に立つて、右のように再一審における広田証言の真意を誤解したものである。

したがつて、右再一審の広田証言は、原審の広田証言(昭和五三年一二月一一日付検察官意見書八五頁、一七分冊七五七の七九一丁表ないし八〇〇丁裏、九〇八丁裏ないし九一一丁裏)と同趣旨であつて、該証言は、再一審の広田証言の反証となるべきものではなく、かえつて、それを補強し明確にしたものといわなければならない。

4(一) 宮脇警部補について、原決定は、本件捜査で重要な役割をにない、「被害者の解剖の結果、午前二時ごろの犯行で……捜査をしていた」との証言までしている同警部補としては、当然、最高裁決定・原決定のいう態様の二度突きのことを知つていたとみられるのに、これを知らなかつたというのは、奇異の感を深くするという。原決定が右で指摘する証言は、「被害者の解剖の結果、午前二時頃の犯行で、その犯人としては、地元の土地感のある者という線と、被害者が闇屋をしており、高知、徳島から買い出しに来ていたので買い出しの人間がやつたのだろうという線の二つにしぼり、本署の者と共に、捜査しました。」(三分冊八九〇丁表)というものである。

すなわち、原決定は、宮脇警部補は解剖の結果、犯行時間(犯行推定時刻、午前二時ころ)まで知つていながら、問題の被害者左胸部の創傷の状況(最高裁決定・原決定は、この創傷の状況の認識即最高裁決定・原決定のいうような態様の二度突きの認識という誤つた判断に立つていることはすでに指摘したとおりである。)を知らなかつたというのは、奇異であると指摘しているのであるが、前記第四、二、1、(四)で述べたように、犯行推定時刻は、犯人検挙のための重要な要素の一つであるので、この種事件が発生した場合、警察官としては重大な関心を示すが、問題の左胸部創傷の状況など細かい点まで、その時期で検討する余裕のないのが捜査の実情であるから、原決定の右指摘は誤つている。まして、前記第四、一、2、(三)で述べたように、宮脇警部補は、死体解剖や善教寺の捜査会議には加わらず、当時は、捜査の中枢の立場になく、多数の署員とともに、犯人の足取り、聞き込みなどの外回りの捜査を行つていたので、同警部補の当面の任務(犯人の特定、検挙のための聞き込み)からみれば、これは当然のことであり、決して奇異ではない。右に引用した宮脇証言は、その間の捜査の実情をよく物語つている。

(二) 次に、宮脇警部補が請求人の取調べをするようになつた経緯については、前記第四、一、3で述べたとおりであつて、その間、同警部補は、本署にある捜査本部と離れた高瀬警部補派出所で請求人を取調べており、一時、田中警部、広田巡査部長の応援を受けたが、問題の被害者左胸部の創傷、ひいて最高裁決定・原決定のいうような態様の二度突きのことについての右両名の認識いかんの点は、前述したとおりであるので、宮脇警部補が、このことに関し、右両名から教示されたということはあり得ない。そもそも、そのような特異な態様の二度突きの方法について、請求人の自白があるまで、ひとり官脇警部補のみならず、捜査官として誰一人、考えていなかつたことは、すでに詳しく述べたとおりである。

(三) 前記第四、一、3で述べたとおり、宮脇警部補は、問題の被害者左胸部の創傷のことについては全く知らず、もとより最高裁決定・原決定のいうような態様の二度突きのことなど、夢想だにしなかつたので、前記のように、請求人からそのような態様の二度突きの自白があつたとき、その自白の内容がきわめて特異であつたので不思議に思い、捜査本部に電話で死体解剖の結果を照会し、初めて右自白に符合する創傷のあることを知り、それでもなお、その自白の内容の刺し方があまりにも特異なので、かかる行為が、本当に可能かどうかをコンニヤクで自ら実験し確認したのである。真犯人でなければ知り得ない具体的事実についての真実の自白を得た経緯が、きわめて明らかである。

宮脇警部補としては、本件特殊な創傷の存在自体を知らなかつたのであるから、あえて論ずる要を認めないが、最高裁決定や原決定が疑問を提示しているので、同警部補がその創傷の存在を知つて取調べている場合を想定してみても、前述したように警察官誰一人として考え想像していなかつた、最高裁決定・原決定のいうような特異な態様の二度突きの自白を同警部補が請求人に押しつけるということはあり得ないことであつて、このような特異な二度突きの自白こそ、まさにそれを自ら実行した真犯人の口からしか語り得ない秘密性をもつた事実の自白であるといわなければならない。前述した二度突きの自白を得たことに関し宮脇警部補の述べるところは、十分信用することができる。

以上述べたところにより、請求人の宮脇警部補に対する二度突きの自白は、捜査官があらかじめ知らない、明らかに犯人しか知り得ない秘密性をもつた自白と認められ、これを否定する原決定の判断は誤つており、原決定が新証拠とする捜査状況報告控等は、右自白の信用性、真実性をいささかも害するものではないので、刑訴法四三五条六号の明白性ある証拠とは到底、認められない。

第五おわりに

以上、即時抗告の理由の詳細について述べたが、これを要するに、原決定は、最高裁決定の指摘する疑点、留意点等について十分な審理を尽くすことなく、具体的な理由も示さないまま解明不能とし、確定判決の挙示する証拠だけでは請求人を犯人と断定することは早計であるとした上、新証拠と他の証拠を総合的に判断すれば、確定判決の有罪認定に合理的疑いを生じ有罪判決に至ることはなかつたであろうと判断して、安易に新証拠の明白性を肯認したものであるが、以上述べたところにより、最高裁決定が請求人の自白の信用性に疑いを抱かざるを得ないとする三疑点及び自白の内容に不審を抱かせるとする五留意点は、いずれも審理を尽くし証拠を正当に評価すれば、十分解明できるものであり、右自白の信用性にいささかも疑いを容れる余地はなく、確定判決の挙行する証拠によつて請求人が本件の真犯人であることには一点の疑いもない。しかして、原決定が新証拠として掲げる船尾血痕鑑定は信用性がきわめて乏しく、また、岡嶋証言も、その全趣旨に徴し、原決定がいうように古畑第一鑑定の信用性を損なうものではなく、更に、捜査状況報告控等は、単に当時の捜査会議の状況を知り得るにすぎないものであつて、宮脇警部補が二度突きのことを知らなかつたとする事実をいささかも動揺させるものではないのであつて、右の各新証拠が仮に確定判決をなした裁判所に提出されていたとしても、確定判決の有罪認定に合理的疑いを生じることはあり得ず、これらは刑訴法四三五条六号の無罪を言い渡すべき明らかな証拠とは到底認められないので、原決定を取消し、請求人の再審請求を棄却する裁判を求めるため、本即時抗告に及んだ次第である。

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